【インタビュー】無季から有季、有季から無季

3・11と以後の俳句

高野ムツオ

たかの・むつお | 

1947年生まれ、俳人。阿部みどり女、金子兜太、佐藤鬼房に俳句指導を受ける。2002年、鬼房のあと俳誌『小熊座』を継承、主宰。2014年、『萬の翅』で読売文学賞(詩歌俳句賞)、第48回蛇笏賞、第6回小野市詩歌文学賞など受賞。句集に『陽炎の家』『鳥柱』『雲雀の血』『蟲の王』『片翅』、著書に『時代を生きた名句』『語り継ぐ俳句――3・11以後のまなざし』など。


高野ムツオさん(俳人)に聞く

 

元に戻ることはもうない

 

――東日本大震災から8年になります。どのような思いで3月11日を迎えられますか。

 

高野 同じことを思い、また新しく付け加わった思いになりますね。毎年、何度も何らかの形で被災地を訪れますと、風景、状態が行くたびに変わりますのでね。復興のために防潮堤や嵩上げや造成やさまざまな工事をしているわけですけれども、それは刻々変化するんです。初めの段階ですと、被災してたくさん流されて、それが何とか元通りになる、なってほしいという期待感があったわけです。ところが、工事は進むのですが、私がイメージしていた元に戻るということでなくて、新しいものが出現する、新しい光景になるんだということを少しずつ目にするようになりました。

復興というのは元に戻ることじゃなくて、新たな世界が出現することなんだというふうに少しずつ納得させられてきて、最近なんか行くたびにやっぱりああいう大震災の後には元に戻るということはないのだということをとくに実感していますね

 

――そういう思いになってきたのはいつ頃からですか。

 

高野 3、4年過ぎてからですかね。それまでは、もしかしたら戻るのではないかと期待感がありました。ただ、大変な被災状況を見ていますので、はたして元のような町が復旧し、人びとがまた日常の営みを取り戻すことができるのかという不安感はずっと持ってはいました。でも戻る可能性あるんだろう、元に戻るに違いないと思っていましたが、最近はほとんどないですね。10年近くになるでしょう、60だった人は70になり、70だった人は80になるわけですよ。共同体そのものも全て壊れてしまっているわけで、新しい町や新しいビル、新しい工場はできるんでしょうけれども、元の人たちが元の暮らしを守りながら生活していくということはもう叶わないのだと思いますね。

仕方がないのかもしれませんが、復興というのは何なのだろうか、誰のためにあるのが復興なんだろうとも思います。うがった言い方かもしれませんが、こういう大震災があったがために利益をむさぼる人が出るのを目の当たりにすると、それらの人のための復興になっているのではないかとかも思います。政府の方針も果たしてこれでいいのだろうかとか、考え始めたらきりがなくなります。

 

――東京オリンピック・パラリンピックで東京へ工事も人手も集中しています。

 

高野 ですから、東京オリンピック・パラリンピックに関心がないですね。もっとやらなきゃならないことがあるだろう、福島原発は先が見えないわけで、まずそちらをどうするかが先だろうと思いますね。これはいまのマスメディア・情報社会のやむを得ないことかもしれないけれども、次から次へ新しいものへと国民全体の関心が流れ、被災したところは、東北といわず熊本も西日本も、被災したまま置いていかれている。

誰のための復興なのかということですよ。そこに住んできた人たちの姿が見えないんですね。どうも、企業だとか役所とか、そういう上から目線の復興で、そこに住んでいた人たちの低い目線からの復興というのが、私などには見えない。確かに仮設住宅から復興住宅に入ってひと安心している人はいるでしょう。さまざま補償金をもらってそれなりに暮らして人もいるでしょうけれども、そうした人も含め、多くの人が仕事を失い、家族を失い、自分の住んでいる共同体を失ってつらい思いをしている。8年経っても先が見えないで萎えている。そういう心のケア、心の復興に、政府や関係者はどこまで力を尽くしているのか。彼らはやっていると言うでしょうけれども、私には疑問ですね。

 

言葉の本質を見てきたのだろうか

 

――高野さんは昨秋、『語り継ぐいのちの俳句――3・11以後のまなざし』(朔書房)という、高野さんの  ものを含む震災句とその背景や震災についての思いなどを綴られた句文集を出されました。これを拝見しますと、当然ですが、言葉の問題を痛感しました。「あとがき」にある、大震災という最大危機に立ち合ったときに俳句を詠むことが自己の存在証明だっ  た、ということや、「悲しみの質量が季感の世界を超えている」、季語や季感が震災の実感にそぐわない、とおっしゃっています。また、高橋睦郎さんの詩をひいて、大震災は何より言葉を壊した、ともいわれる。にもかかわらず、あの震災、原発事故は、言葉によって表現されなくてはいけないわけですね。言葉は大災害に太刀打ちできるのでしょうか。そのあたりはどう考えればいいでしょう。

 

高野 高橋睦郎さんが言葉が壊れたと言われるのは、つまり、われわれは言葉を使って自分の内なる世界を表現したり、想像したり、形をつくっていくわけで、そういう言葉が壊れた、そういう世界はすべて壊れてしまった、ということだと思うんです。たとえば、津波ひとつとっても、津波という言葉は知っていたつもりだったけれども、現実の津波は、私たちが先入観として持っていたものとはかなりかけ離れた、恐ろしい存在だということを目の当たりにしたわけですね。ということは、言葉の表面だけを捉えていて言葉が抱えている物の本質を私たちは見てなかった、見えてなかったのではないかという思いがします。

震災以降よく言われるけれども、地名にかつての歴史とか教訓とかさまざま刻まれているんですね。宮城県でいうと南三陸の大船沢とか石巻市の釜谷という地名、入りくんだ湾で波が入りやすいところだということで付けたんでしょうが、地名は知っていましたが、本当の意味をとらえていなかった。大船沢は、津波のために船が大きく中に入り込んできた沢だという、釜谷はアイヌ地名で海から上がってきた泥を指すという。地名そのものがかつての人びとの警告であり、生きてきた知恵であり、そういうものが充満していたはずなのだけれど、それを軽んじてしまっていたのではないかということですね。

私は宮城県の多賀城に住んでいますが、そこにも、「末の松山」とか「沖の石」という歌枕があります。「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」という、清原元輔(908~990年)の歌が残っています

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