道徳の教科化による公教育の質の転換

佐貫 浩

さぬき ひろし | 教育学



一 異常事態の出現

 

道徳の教科化が、それほどの抵抗もなく、粛々と、あるいは着々と進行している。その事態の異常さ、危うさを、今一度、率直に指摘しておきたい。少なくとも、戦後およそ半世紀、道徳の教科化には、世論も、教育学世界も強力に反対し、それを強行することはできなかった。ところが、教育の政策決定の仕組みの根本的な改変――教基法の改定、教育行政の性格の改変、安倍首相の意向をストレートに教育政策決定の審議ルートに乗せる諮問機関(教育再生会議等)の設置など――を介して、一挙に、道徳の教科化が導入された。そのことは、以下のような重大な公教育の質の転換を引き起こしつつある。

第一に、人間の内的な道徳的規範、価値意識を、文科省が教科書検定で許容した範囲の徳目と教科書教材によって教え込む道徳教育が、ついに始まった。教育における戦争反省の核心にあった修身科廃止が、再度ひっくり返されたといっても良い。

第二に、どんな価値規範を教えるかを、文科省が、19‐22項目(徳目)として指定し、それに沿うように教材の内容を厳密に規定して、それ以外は排除されることになった。その内容決定にはなんの根拠も存在しない。本来教科内容は科学や文化の世界の独自の論理、あるいは何らかの国民的な合意によって決定されるべきものであるが、それなしに、国家が授業の価値内容を規定するという恐ろしい事態が出現したのである。検定教科書には、文科省が編集してきた「私たちの道徳」などに掲載されていた「文部(科学)省資料」――いわば国選教材――が、小学校6学年分全1720教材中244資料(14・2%)も入っており、特に道徳教科書発行全8社中6社以上に掲載されている16資料(教材)のなかの13資料に及んでいる(*1)。基本的人権、民主主義、平等、生存権保障、労働の権利、平和、地球環境の維持や持続など、現代社会の正義水準にかかわる諸価値がなぜここに掲げられていないのかも、全く根拠が示されていない。個人の内面の価値や思想に関わる領域で、このような一面的な国家統制が公然と行われる教育の舞台が出現したことは、日本ははたして国民主権の国なのかと問わねばならない事態である。

第三に、教科「道徳」の時間が、非常に拘束的で、その学習の性格が、がんじがらめに縛られ、方向づけられていて、この内容と方法を改変していくことが非常に難しいものになっている。それは、①非常に一面的なテーマ設定(徳目)で拘束されている、②教科書教材の使用が強制されている、③授業時間内で一つの「徳目」を完結させるように設定されていて、テーマをじっくり批判的に対象化する時間的な設定が難しい、④カリキュラム・マネジメントによって、個々の教師、あるいは個々の学校での自由な扱いが非常に難しい、⑤子どもの行動や態度に及ぶ評価が強められていく可能性が高い、などがある。教科「道徳」の時間は、特別に管理、方向づけられた自由剥奪空間化されている。

第四に、たとえ教師によるどのような抵抗や工夫が行われるにせよ、全体としてみれば、教材そのものの影響力、規範や価値意識形成力が、時間とともに国民の間に浸透していくことは避けられない。文科省が作成した道徳教材、ナショナリズムをあおる教材、侵略戦争をも美化するような教材が、国民の共通文化体験、「説話」体験として、国民意識、歴史意識、社会意識が形成されるという状況は、一億を超える人口を持つ民主主義国家のありようとして、異様な事態である。

 

 

二 道徳的価値をどう扱うのか――勝田守一の道徳教育論の構造

 

実は蓄積されてきた戦後の教育学の論理からすれば、そもそも道徳を今回のような性格で独立した教科として設定する根拠自体がなくなっているはずなのである。修身科が廃止されたのは、①その理念と価値そのものにおける非科学性と天皇崇拝、反民主主義性によるとともに、②国家が一方的に価値を選択し、それを国民に教え込むその形式において、民主的な教育の原理に反するものとして認定されたことによる。(注)

 

この小論では、子どもの道徳性の形成が、学校教育の大きな役割で あることを前提として、その課題を担う教育の全体を「道徳性の教育」と呼ぶ。戦後の教育は、修身科の廃止を受けて、教科としての道徳を設置しないことを第一の原則としつつ、道徳性の教育を、一般の教科 学習、学級活動や生活指導などの学校の教育指導の全面で取り組むものとした(道徳教育の「全面主義」)。だから「全面主義」とは、①教科としての道徳科を設置しない、②教科や生活指導など学校教育の全体において道徳性の教育を展開する、という二つの内容をもつものと捉えるべきものである。その意味では教科「道徳」が設置されていなかった戦後の時期において、道徳性の教育は、この「全面主義」に沿って、学校教育の重要な内容として遂行されてきたのである。しかし、教科「道徳」を復活しようとする政策は、教科としての道徳が設置されていないがゆえに、道徳(性)の教育が学校の中でしっかり行われていないとし、「道徳教育」の欠落を印象づけようとしてきた。そのために、道徳教育は、それに対応する固有の学習時間(教科)が不可欠だという観念が強く広まっている。道徳性の教育をめぐるこの交錯した観念状況をもう一度再整理するために、学校で行われる道徳的価値の形成に関する教育を「道徳性の教育」と呼び、教科としての「道徳」といったん区分して論じる。

(以下は本文をお読みください)

一覧ページに戻る