「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか

――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして

内野光子

うちの・みつこ | 

1940年年生まれ、歌人


はじめに

 

中村稔は、二〇一八年に『髙村光太郎論』(青土社)を出版し、二〇一九年にも同社から『髙村光太郎の戦後』を出版した。新著では髙村光太郎と斎藤茂吉の評価を変えたという。髙村光太郎と斎藤茂吉の愛読者は多く、それぞれに、自認する研究者も数多い中で、二冊の大著によって、一九二七年生まれの著者は、どんなメッセージを届けたかったのだろう。

私は、二〇一九年一月に、『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代――「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社)を出版した。そこでは、斎藤史が、一九四三年に出版した歌集『朱天』を生前に自ら編集した『斎藤史全歌集』(大和書房 1977年、1997年)に収録する際に、削除と改作をおこなった点に着目、その背景と実態を分析した。さらに、二・二六事件に連座した父の斎藤瀏、処刑された幼馴染の将校にかかわり、昭和天皇へ募らせていた怨念は、大政翼賛へ、さらに晩年の親天皇へと変貌していく様相を、作品や発言からの検証も試みている。

私としては、斎藤茂吉や斎藤史をはじめ多くの歌人たちが、そして、髙村光太郎も、戦時下に依頼されるままに、あれだけの作品を大量生産して、マス・メデイアに重用されていたにもかかわらず、敗戦後、自ら「歌集」や「詩集」を編集する際に、さまざまな「ことわり」をしつつ、戦時下の作品を積み残した経緯がある。

今回は、まず、新著『髙村光太郎の戦後』の光太郎の部分を中心に、中村の光太郎像を検証したい。なお、私自身の関心から、日本文学報国会における髙村光太郎と戦時下の朗読運動渦中の光太郎にも触れることになるだろう。さらに、拙著『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代』にかかわり、髙村光太郎に、戦中・戦後の作品の削除や隠蔽はなかったのか、についても言及できればと思う。

蟄居山小屋生活の実態

中村の新著、第一章の冒頭では、光太郎の敗戦後の七年にわたる山小屋での蟄居生活、それにいたる経過がたどられる。一九四五年から山小屋を去る一九五二年一〇月まで、光太郎の日記と書簡などを通じて、その暮らしぶり、人の出で入り、執筆・講演などの活動も記録にとどめ、作者、中村の見解も付せられる。

それにしても、光太郎の日記には、地元の人々や知人、出版関係者たちから届けられた食品などが、一品も漏らさないという勢いで、誰から何をどれほどと克明に記録されている。中村も書くように、光太郎は「礼状の名手であった」のである(本書43頁)。

礼状には、贈り主への感謝の気持ちとどれほど役に立っているかなど率直な心情を吐露する内容が多い。戦前からの著名な詩人から、このような手紙をもらったら、舞い上がる人も多かったのではないか。同時に、日記には、到来もののほかに、自分が食したもの、菜園の種まきや収穫、作付け、施肥などの農作業についてもこと細かく記録にとどめている。「食」へのこだわりは執念にも似て、正岡子規の病床日記を思い起こさせる。

書簡の中で興味深かったのは、東京の椛澤ふみ子との文通の多さと両者の間には屈託のない和やかな雰囲気が漂っている点であった。彼女から日常的に届く新聞のバックナンバーの束など、光太郎にとっては、大事な情報源ではなかったのか。たまに、山小屋を訪ねることもあり、「小生の誕生日を祝つて下さる方は今日あなた位のものです」(1947年3月13日、79頁)とも綴る。なお、余談ながら、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

敗戦後の光太郎を語る吉本隆明は、上記の「食」への執念は「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも分析しているが、私は、より単純に、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

 

『髙村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは

そうした暮らしの中から、敗戦後初めて刊行された詩集『典型』の冒頭は「雪白く積めり」であった。その静寂な世界は、一見、戦前の饒舌さが後退したかに思えたが、詩の後半に「わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。」「敗れたるもの卻て心平らかにして……」などのフレーズをみると、大げさな身振りは変わっていないとも思った。

 

「雪白く積めり」

雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。 /ふめば膝を沒して更にふかく/その雪うすら日をあび て燐光を發す。(後略)

(「雪白く積めり」1945年12月23日作

『展望』1946年3月。『典型』収録)

 

中村は、この「雪白く積めり」について、「さすがに高い格調の、精緻な叙景に高村光太郎の資質、非凡さを認めることができるとしても」いったい何を読者に伝えたいのかがわからない失敗作だとも断言している(46~47頁)。

詩集『典型』に収録の「典型」と題する一篇の冒頭と末尾を記す。みずからの「愚直な」生を振り返るような作品である。中村は、前著の『髙村光太郎論』でも「光太郎の弁解の論理を肯定しないけれどもその思いの切実さを疑わない」としているが、新著ではさらに踏み込んで、最初に「典型」を読んだとき、作者が愚者を演じているようで反感を覚えたが、「弁解が多いにしても、『暗愚小傳』の諸作の結論として虚心にこの詩を読み返して、これが彼の本音だった、と考える。そう考えて読み直すと、深沈として痛切な声調と想念に心を揺すぶられる。この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩である」と絶賛する。さらに「これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない」との評価をする(160~161頁)。

 

「典型」

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にゐるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。(中略)

典型を容れる山の小屋、/小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。

(「典型」1950年2月27日作                 『改造』1950年4月。『典型』収録)

 

しかし、敗戦後、疎開先の花巻から最初に発信された詩は、一九四五年八月一七日の『朝日新聞』に掲載された「一億の號泣」であった。「綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/われ岩手花巻町の鎮守/……」で始まり、つぎのような段落がある。これは詩集『典型』に収録されることはなかった。その「序」で、光太郎は「戦時中の詩の延長に過ぎない」作品は省いたとある。こうした作品を指していたのだろう。

 

「一億の號泣」

(前略)天上はるかに流れ來る/玉音の低きとどろきに五体をうたる。/五体わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、

/普天の一億ひとしく/宸極に向つてひれ伏せるを知る。(後略)

(「一億の號泣」1945年8月16日作

『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 

また、中村が言及する「わが詩をよみて人死に就けり」も光太郎の敗戦後を語るには欠かせない作品であると、私も思う。

 

「わが詩をよみて人死に就けり」

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の大腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 

この九行の詩は、制作月日が不明だが、日記の一九四六年五月一一日には、「余の詩をよみて人死に赴けり」を書こうと思う、という記述があるが、この作品も詩集『典型』には収録されなかった。

(以下は本文をお読みください)

 

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