日本アニメーション業界の状況

――「京アニ」事件を通してみる

萩原由加里

はぎはら・ゆかり | 

1979年生まれ、アニメーション文化論、帝京大学文学部日本文化学科講師)


はじめに

 

現在、アニメーションは新しい形の日本文化として国内外で扱われつつある。アニメーション=子供のものという考え方は1970年代から徐々に崩壊し、1980年代前半には「オタク」と呼ばれる熱狂的なアニメ・ファンを生み出すに至った。そして、1988年から89年にかけて発生した宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件では、あたかもオタク=犯罪予備軍であるかのようなマスコミの偏重的報道により、オタクに対する激しいバッシングが行われた。しかし、アニメーション業界はくじけることなく、その後も成長を続けてきた。常に新しい表現と世界観を追い求め、多彩かつ大量の作品を生み出すことで、世界的にも類をみないアニメーション大国へと成長するに至った。

しかし、その一端を担ってきた京都アニメーション(「京アニ」)の第1スタジオが2019年7月18日に放火され、数多くのスタッフが犠牲となった。

ここでは、日本アニメーションの今日に至る隆盛の道のりを簡単に触れながら、その文脈上で京都アニメーションというスタジオがどのような役割を担っていたのかを紹介したい。

 

1.アニメーション序説――漫画映画の時代

 

戦後の日本アニメーション業界を見渡した時、その大きな流れを成す2つの柱として語られる制作スタジオが、東映動画と虫プロダクション(虫プロ)である。まだ現在のようなアニメーションという名称ではなく、「漫画映画」と呼ばれていた時代のことである。

まず、東映動画の源流は、終戦間もない時期にまでさかのぼる。戦前から活躍した政岡憲三と山本早苗が設立した日本動画社が母体となっている。

政岡は1943年という戦時下に『くもとちゅうりっぷ』という抒情あふれる作品を世に送り出し、また戦中から後進の指導に熱心に取り組んでいた。一方の山本は、「日本アニメーションの創始者」とされ、1917年に日本初の国産アニメーションを作った北山清太郎の弟子にあたる人物である。まさしく、当時の漫画映画業界を代表する大ベテラン二人が、終戦直後の困難な時代を乗り切るために協力して設立したのが日本動画社なのである。

政岡は、体調面や経済的な事情から1950年に日本動画社を退社してしまうが、その弟子たちや山本らの尽力により、同社は細々と経営を続けた。そして、その高い技術力に注目したのが大手の映画会社・東映である。日本動画社は東映の傘下に入り、東映動画と改称した上で「東洋のディズニー」をスローガンに再スタートを切る。この東映動画は、現代の日本アニメーション業界を代表するような人材を輩出していく。スタジオ・ジブリの宮崎駿と高畑勲。またTVアニメ『アルプスの少女ハイジ』などで活躍した小田部羊一。さらにはNHKの連続テレビ小説『なつぞら』のヒロイン・なつのモデルとなった奥山玲子も、東洋動画ならぬ東映動画の出身である。ちなみに、奥山の夫が小田部である。

東映動画は1958年に『白蛇伝』を公開させて、商業デビューする。なお、この『白蛇伝』を見て、美しく健気な白蛇の精霊・白娘に一目惚れしてしまったのが若き日の宮崎駿であり、宮崎が漫画映画の道を志し、学習院大学を卒業後、同社に入社するきっかけとなる。

 

2.日本アニメーションの大変革――アニメーションからアニメへ

 

さて、普段あまり意識することなく使っている言葉に、アニメとアニメーションがある。通常、アニメーションの単なる略称としてアニメという言葉を使いがちだが、研究者の間では、両者は異なる意味を持つ言葉として使い分けられている。

アニメーションとは、フル・アニメーションと呼ばれる、1秒間の映像を作るために12~24枚の絵を用いた作品を指す。それに対してアニメとは、リミテッド・アニメ

ーションと呼ばれる独特の省略技法の導入し、1秒間に用いる作画を8枚程度にまで削減し、ストーリー性やキャラクターの個性を重視した、日本アニメーションの一部を指す。アニメの多くは低予算で作られ、主にTV放送を前提として制作されたものである。とりわけ海外から見た時、日本のアニメーションはアニメならぬ“Anime”として、他国のアニメーションとは意識的に区別して呼ばれることが多い。

さて、少なくとも日本には、これまで3度のアニメ・ブームがあったとされている。第1次は、1963年に始まる『鉄腕アトム』、第2次は1970年代の『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』、そして第3次は1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』がそれぞれの契機となっている。

第2次アニメ・ブームでは、本格的なSFアニメが登場し、カッコいいメカが活躍するだけではない、リアルな戦争な描写がアニメの中に盛り込まれるようになる。そこでは、単純な勧善懲悪にとらわれない複雑な人間関係を描くことによって、アニメ・ファンの年齢層を10代後半以上に広げることに成功した。次の第3次アニメ・ブームでは、中核となった『新世紀エヴァンゲリオン』の爆発的なヒットにより、アニメ=オタクが見るというネガティブなイメージが払拭され、その経済的効果もあって、オタクに対する世間の見方が変わるきっかけとなった。第3次アニメ・ブーム以降、アニメを観ていることを公言できる雰囲気が徐々に醸成され、多くの若者たちがアニメやマンガが好きであると堂々に語れるようになる現代へとつながっていく。

さて、ここで注目すべきは第1次アニメ・ブームの『鉄腕アトム』である。それまで、当時でいうところの漫画映画は、映画館で見るものであった。日本では1953年に一般向けTV放送が開始されるが、高価な品のため、当初は一部の家庭しか購入することができなかった。しかし、1959年に当時の皇太子ご成婚がTVで生中継され、さらに1964年の東京オリンピックもあり、多くの家庭がTVを買い求め、1965年には白黒TVの普及率は90%にまで達している。

TV時代の到来をいち早く悟ったのが、漫画家・手塚治虫であった。手塚はマンガの執筆で得た豊富な資金を基に、1961年に手塚治虫プロダクション動画部を設立し、翌年には虫プロダクション(虫プロ)と改称してアニメーションの制作に乗り出す。

手塚とアニメーションの接点は、幼少期にまでさかのぼる。幼い頃よりディズニーを始めとする海外のアニメーションに慣れ親しみ、また戦時下の1945年には瀬尾光世演出(注:現代の監督に相当)の『桃太郎 海の神兵』という長編アニメーション作品を観て感動し、当初はアニメーション制作の道を志していた。しかし、大学在学中に漫画家としてデビューしていた手塚が、あるアニメーション制作スタジオの求人に応募したところ、アニメーションの世界は儲からず、漫画の世界で成功している人間が過酷な仕事に耐えられるはずがないと断られてしまった経緯があった。一度は断念したアニメーションの世界だが、手塚のマンガ『ぼくの孫悟空』を原作として、東映動画がアニメーション映画『西遊記』(1960年)の企画を立ち上げたことが転機となる。手塚は単に原作者としてだけではなく、スタッフとしても参加するようになる。

しかし、戦前以来の政岡憲三と山本早苗の流れを受け継ぎ、プロとしての自負を持つ東映動画のスタッフたちと、片やマンガの世界で成功し、古今東西のアニメーションに精通しつつも、制作に関しては素人であった手塚とでは、制作方針をめぐって度々衝突するようになる。しかも、人気漫画家として複数の連載を抱えていた手塚は、東映動画のスタジオに足を運ぶ時間が限られており、手塚不在のため作業に支障をきたした。そこで、手塚のアシスタントであった月岡貞夫らが代わりに東映動画に派遣され、作業に従事した。手塚としては、この『西遊記』制作において自分の意思が十分に反映されなかったことに強い不満を抱いた。その結果、虫プロの設立によって、自分の理想とするアニメーション制作の実現を目指すようになったのでる。

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