「表現の不自由展・その後」のその後

永田浩三

ながた・こうぞう | 

1954年生まれ。武蔵大学教授、ジャーナリスト、「表現の不自由展・その後」実行委員。


■ はじめに

未来の歴史家たちは、2019年という年はどんな年だったと語るのだろうか。

天安門事件やベルリンの壁の崩壊から30年。香港でいまも続く若者を中心とした抵抗運動は、明らかに1989年の春に北京の天安門広場の多くの声が圧殺されたことを思い起こさせる上でも大きな役割を果たした。

わたしや仲間たちにとって、2019年の夏から秋にかけては、のたうち回り、からだの節々が痛くなるような日々のなかで、一条の希望の光が差した季節であった。苦しみはこれからも続くだろうし、逃れることは許されない。

 

■ 静謐で、緊張の中にも笑みが

愛知県で開かれた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示の一つ、企画展「表現の不自由展・その後」は、8月1日の開催からわずか3日で中止された。テロ予告や脅迫電話が相次ぎ、安全の問題が中止の理由とされた。

わたしは企画展の実行委員会5人(アライヒロユキ・岩崎貞明・岡本有佳・小倉利丸・永田浩三)の1人として、準備の段階から本番、そして再開に至るまで深く関わった。折々に掲載された新聞・雑誌の記事やテレビのニュースを目にした方たちは、大声と喧騒にまみれた光景を想像されるかもしれない。だが展示会場はそうではなかった。そこはまさに静謐で、緊張の中にも笑みがこぼれるような空間だった。若いひとも年配のひとも、男女にかかわりなく、お客さんの多くが「平和の少女像」に向き合い、写真を撮ったり、横に置かれた椅子に座ってみたり。少女像に触ってみるひとや、丁寧に語りかけるひともいた。

見学していた女の子に尋ねてみた。「何で少女の左の肩に黄色い小鳥が止まっているのだと思う?」すると女の子は、「少女がひとりぼっちで、かわいそうだから、小鳥が『友だちになろう』ってやってきてくれたと思う」と答えてくれた。実はこれは、少女像の作者であるキム・ソギョン、ウンソン夫妻の制作意図とも近い。韓国では、小鳥はあの世とこの世をつなぐ架け橋のような存在である。少女はもはやこの世にはいない。霊界にいる彼女をこの世につなぐために、黄色い小鳥は肩にとまり、生と死の世界を結んでくれたのだ。この世のひととのやりとりができるようになった彼女は、となりの椅子にだれかがやってきて、話しかけてくれるのを待っている。

もちろん、「こんなもの展示してひどい」というひとが、少数ながらいた。「平和の少女像」の頭を小突くような仕種で写真を撮ろうとしたひとも現れた。「こつんとやってもいいですか?」。わたしが、それはダメでしょうと言ったら、素直に従った。像に袋をかぶせようとするひとも現れた。そのときは、観客が自発的に「これはあくまで見るものなのだから、そんなことしちゃダメだよ」と制止した。見るひとのなかに、いろんな感情が生まれていたが、極端なひとはいなかった。心揺さぶるような出会いが確かに存在した。

 

■ 2015年の「表現の不自由展」

今回の企画展「表現の不自由展・その後」はタイトルに、わざわざ「その後」と記してある。これは2015年に、武蔵大学前のギャラリー古藤で開催した「表現の不自由展」の「その後」にあたるという意味だ。

「表現の不自由展」のはじまりは、さらにその3年前の12年の夏にさかのぼる。この年、東京・新宿のニコンサロンで、元日本軍「慰安婦」だった女性たちの撮影をし続けてきた韓国人写真家の安世鴻さんの写真展が、「在特会」などによる電話やメールを使った攻撃で中止に追いこまれた。安さんは開催を求めて東京地裁に仮処分の申し立てを行い、安さんの側の主張が認められて開催は実現した。しかし、ニコンサロンの会場は、まるでテロ対策を行う空港のように大掛かりなセンサーが設置され、持ち物チェックがあり、物販は禁止され、私語もメモも禁止されるという物々しさだった。花束を飾ることも許されず、みな緊張した雰囲気のなかでひそひそ話を繰り返した。とても写真を落ち着いて鑑賞する場所とは言えなかった。

わたしは写真展が中止されたことを最初、新聞で知り、すぐさま新宿ニコンサロンに駆け付けた。わたしは安さんのことが他人事とは思えなかった。

 

■ 安倍晋三官房副長官の介入、NHK番組改変

2001年、わたしは当時、NHKのプロデューサーだった。21世紀が始まるにあたって、戦争の世紀と呼ばれた20世紀を「人道に対する罪」の観点から4回のシリーズで問い直そうとした。1回目はナチスに協力したフランス・ビシー政権。3回目はユーゴ・ルワンダの内戦での性暴力。4回目はアパルトヘイトに向き合う南アフリカの真実和解委員会を取り上げた。そして2本目が、日本軍による「慰安婦」問題だった。東京・九段会館に「民間法廷」が設けられ、アジア太平洋地域の被害者が集結し、日本軍や日本政府、昭和天皇の責任を問うた。番組は被害者の声をしっかり紹介し、国際法の専門家が裁きを与える場面も伝えるはずだった。しかし、放送前から、右翼が騒ぎ出し、NHK放送センターに乱入し、わたしを殺すなどと言って騒いだ。だが、NHKは毅然とはねつけた。

異変が起きたのは放送前日である。NHKの幹部が、内閣官房副長官だった安倍晋三氏らと面会し、局舎に戻ったあと、編集長であるわたしに劇的な改変指示を出すのであった。番組は44分から40分に短くなり、被害者の証言は大きく削られてしまった。後でわかったことだが、安倍氏は、NHKの放送総局長に対して、「公平公正にやってくれ」と言っただけでなく、「お前、勘ぐれ」とも言ったとされる。日本国憲法第21条2項には、「検閲は、これをしてはならない」と書かれている。

安倍氏は、当時官房副長官という政府高官であり、番組の内容という思想信条に関わることについて放送前に修正を求めたとしたら、事前の検閲として憲法違反の行為を犯したことになり、そもそも憲政史上最長となる首相になどなっていなかったことが想像される。しかし現実には、わたしは上司の命令に抗いはしたものの、力及ばないまま、改変に手を染めることになったのだ。以来ずっと悔いを抱えるなかで、安さんの事件に出会った。

 

■ 安世鴻の「慰安婦」写真展

何よりわたしの心が動いたのは、安さんが撮った写真が、圧倒的に素晴らしいことだった。戦時中、「慰安婦」にされた女性たちがひっそりと中国で暮らしている。ひとりひとりの居場所を突き止め、中国に出向き、丁寧な会話を繰り返す中で、奇跡的なシャッターチャンスに出会い、撮りためていった1枚1枚は、日本の和紙のような伝統を持つ「韓紙」にプリントされていた。そこには70年前の時間が止まり、彼女たちの悲劇が今も存在しているようだった。

こんな芸術的にすばらしい写真を見られなくするとは一体何なのか。そんな社会であっては断じてならないという思いがわたしのなかに湧き上がってきた。同じ思いを抱いたひとがいた。かつて『前夜』という意欲的な総合雑誌の編集長を務めた岡本有佳さんだった。岡本さんとわたしが言い出しっぺとなり、たとえどんな攻撃があろうとも、志を同じくするひとたちが力を合わせれば、きっとはね返せるはずだ。わたしが勤務する武蔵大学の斜め前にある「ギャラリー古藤」のオーナーの田島和夫さんと大崎文子さんがこの思いに賛同してくださり、練馬の仲間たちが結集することで写真展と連日のトークイベントが実現した。

安さんの写真展は計3回開催した。ニコンサロンを相手どった裁判が始まり、それも支援するなかで、展示の場を奪われる事件は、安さんの場合だけではなく、頻発していることが分かってきた。だったら、そうした撤去された作品を一堂に会して日本社会の今の言論・表現の不自由について考えてみることはできないか。そうして実現したのが、2015年の〝元祖〟「表現の不自由展」である。

 

■「平和の少女像」、『はだしのゲン』……

2012年には東京都美術館で「平和の少女像」のレプリカの展示が、作家への断り無しに途中で撤去されるという事態が起きた。広島原爆をテーマにした中沢啓治の漫画『はだしのゲン』が学校図書館において、開架から閉架図書に変え、子どもたちの目に触れないようにすることも起きた。島根県出雲市で始まり、練馬区などでも同様の動きが起きようとしていた。漫画『美味しんぼ』のなかで、原発事故の影響を疑わせる「鼻血」の表現が問題となり、出版社がおわび文を掲載し、一時連載が止まることもあった。そんなこんな、発表の場を奪われ、消されたもの、消されようとしたものを集めた「表現の不自由展」は話題を呼び、15日間で2700人のひとが来場した。見に来たひとの中に津田大介さんもいた。

わたしと津田さんとの縁は、津田さんがキャスターを務めるCSテレビ朝日の「日本にプラス」という番組でNHKが抱える問題を取り上げたとき、ゲストに二度呼んでいただいたことがきっかけだった。津田さんは、安倍政権によるメディア支配にこころを痛め、政治家の言論弾圧やそれに屈してきたNHKの姿勢を厳しく批判した。政治家に忖度しない、背筋の伸びたジャーナリストというのが、わたしの印象だった。

2018年6月、立教大学で韓国のドキュメンタリー『共犯者たち』の上演会があった。映画の監督は、崔承浩さん。かつては、韓国の公営放送MBCの『PD手帳』、NHKで言えば、『クローズアップ現代』にあたるプロデューサーだった。韓国の公営放送は、李明博・朴槿恵政権のとき、さまざまな圧力を受け、ニュースや番組が捻じ曲げられた。まず責められるべきは主犯である政権幹部だが、共犯であるメディアにも重い責任が問われるべきであることを、崔監督を筆頭とするテレビ人たちが、連帯し、勇気をもって告発する映画だった。この会場に、津田さんも来ていた。

この時わたしは、津田さんから「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督に就任したこと、トリエンナーレの中の目玉の企画として、あの「表現の不自由展」を実現させたいと告げられた。わたしは、保守的な愛知県で、本当にやり遂げることができるのか、半信半疑でどきどきしながら津田さんの話を聞いていた。そして、「一にも二にも行政がどこまで覚悟するかですよね」と申し上げた。

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