植民地支配違法化のカベにどう挑むか

松竹伸幸

まつたけ のぶゆき | ジャーナリスト



はじめに

 

筆者は昨年一〇月、『日韓が和解する日──両国が共に歩める道がある』を上梓しました。一昨年一二月、元徴用工問題での韓国大法院(日本の最高裁にあたる)判決が出たあと、日韓関係が深刻化していく危機感にかられて執筆を開始したのですが、結論が見えないまま苦悩する日々が続きました。何が難しかったかといえば、大法院判決が提起したことが、「植民地支配の違法性」という新しい問題だったからです。

本誌の読者にとってみれば、「そんなことは新しくない。当たり前じゃないか」という問題かもしれません。しかし、一九六五年以降の日韓関係において、教科書問題や慰安婦問題など多くの議論がありましたが、韓国側から日本側に対して、かつての植民地支配の違法性を認めろという要求が出されたことはありませんでした。戦後五〇年にあたる一九九五年、いわゆる村山富市総理大臣談話が出され、植民地支配によって「多大の損害と苦痛」を与えたことに言及しましたが、あとで述べるように植民地支配が違法であったという認識は拒否しました。

何故かといえば、戦後の日韓関係を律してきたのが、植民地支配の違法性については曖昧にするという「原則」だったからです。よく知られているように、六五年の日韓基本条約と請求権協定に至る過程では、韓国側は植民地支配は違法だったと認めろと要求しました。しかし、日本側は合法だったと主張し、折り合いがつかずに「もはや無効」としてどちらにも解釈ができるようにしました。ですから、その後、日本側が「合法だった」と韓国に迫ることもなければ、韓国側が公式に「違法だった」と日本に迫ることもなかったのです。

大法院判決はそこを突き崩そうとするものです。この判決の内容を実現していくことは、戦後の日韓関係を根底から揺るがすものであり、だからこそ大きな軋轢を生んでいるのです。本稿では、そういう視点に立って、どうすれば植民地支配の違法性という認識を確立できるのかを探ってみたいと思います。

 

一、判決の核心は植民地支配の違法性の提起にある

 

徴用工の訴えを支持する人からよく聞かれる論理は、条約によって国家が請求権問題を決着させても、個人の請求権はなくならないというものです。日韓請求権協定で請求権問題は解決済みとされているわけですが、徴用工一人ひとりの権利は奪えないということです。

これ自体は当然の論理です。国家が個人の権利を剥奪することはできないのですから。

しかし、韓国大法院の判決は、個人の請求権が残っていることは認めていますが、そういう論理で日本企業に慰謝料の支払いを求めているわけではありません。誤解を怖れずにいえば、請求権協定に基づく個人の権利はすでに満たされているというのが、判決の見地だと思われます。

判決は、日韓条約交渉の中で、韓国側が「被徴用韓国人の未収金、補償金及びその他の請求権の弁済請求」をした上で、「請求権協定などが締結された」としています。そして、日本側が支払った無償三億ドルについて、「請求権、強制動員被害補償問題解決の性格の資金等が包括的に勘案された」と述べています。日本側が徴用工の請求権を勘案して支払をしたことを認めているのです。

それだけではありません。それらの資金の一部は徴用工に渡されました。韓国側は、日本の資金を元手に(三億ドルの約一割)、「請求権資金法」(六六年)、「請求権申告法」(七一年)を制定し、死亡していた徴用工などに対する支払いを行いました。それでは十分でないとして徴用工側が日本の裁判所に訴え、敗訴する中で、韓国政府も不十分さを認め、「太平洋戦争戦後国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」(二〇〇七年)をつくるなどして、死亡者、負傷者はもとより未払い賃金等の支払いを求める元徴用工、その遺族に対しても支払いを行うことになったのです。判決はそういう事実を詳しく認定しているのです。

それなのに、なぜ大法院は、なお個人の請求権は残っているとしたのでしょうか。すでに書いたように、請求権協定で解決済みとされたけれど個人の請求権は残っているという論理は、大法院の判決が依拠するところではありません。そうではなくて、請求権協定が想定した個人の請求権はすでに満たされたけれども、請求権協定では想定されていない個人の請求権が存在しているというものです。それが「違法な植民地支配」と結びついた請求権という新しい考え方です。

「本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は当時の日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権であるという点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払い賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである」(傍点は引用者)

これまで「請求権協定」という略称を用いてきましたが、正式名称は「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」という長ったらしいものです。見ただけでもイメージが伝わってくると思いますが、「財産」とか「経済協力」など、あくまで「金目」の問題を解決するための協定とされています。徴用工の未払い賃金はその典型でした。

日本の植民地支配が違法かどうかは、日韓条約と請求権協定に至る過程では議論にはなってきたのです。しかし、そこに決着がつかなかったため、植民地支配の違法性の問題を脇に置いたまま、あくまで財産上の問題にケリをつけたのが請求権協定だったのです。

植民地支配の問題では、そもそも国家間には何も合意が存在していません。国家間に合意はないけれども、植民地支配が違法だったことは明白なのだから、原告の請求権は残っているというのが、大法院判決の論理です。

日本政府は、「請求権協定で解決済みだ」とか、「請求権協定に基づいて仲裁裁判の裁判員選任を求めているのに韓国が応えない」と言います。しかし、繰り返しになりますが、大法院判決は「請求権協定で解決済みだ」という日本政府の言い分を事実上認めた上で、請求の根拠を別のところに求めているのですから、日本政府の議論はかみ合っていません。

ただし、韓国側の言い分にもかみ合わないところがあります。植民地支配が違法だというなら、それを提起すべき対象は日本政府になるはずなのに、被告になっているのは日本企業だからです。日本企業が慰謝料を支払ったところで、日本が植民地支配の違法性を認めたことにはなりません。どうやって日本政府にそれを認めさせるのかという問題提起は韓国側からされていません。

条約が間違っていたから慰謝料を払えというのでは、条約の当事者ではない日本企業は対応しきれません。また、そんな間違った条約を結んだ韓国政府の責任はどうなるのかと、多くの日本国民は疑問を持つでしょう。条約が間違っていたとしても、その条約が規定する手続にそって間違いを正すのでなければ、法治国家とは言えません。

例えば、将来、日米安保条約が間違いだという政権が日本で生まれたとして、新政権がやれることは二つあります。一つは、安保条約第一〇条に明記されているように、アメリカに対して条約の廃棄を通告することです。もう一つは、安保条約を日米友好条約に変える交渉を提起することです。いずれにせよ、条約を否定する新政権であっても、条約を結んだ自国の責任は免れないのですから、国内法ではなく国際法に従って行動する必要があります。

徴用工問題にしても、韓国政府がすべきことは、「条約が間違っていたから賠償を」という大法院判決について、「判決を尊重する」というだけでは足りません。大法院判決を尊重するというなら、条約に規定された手続きに沿って日本政府に対して交渉を提起することです。請求権協定には解釈に違いがあった場合のやり方を書いているのですから、それにそって動くことです。どんなに困難な道のりであっても、日本と交渉し、「植民地支配は違法だった」と認めさせる以外にはないのです。

これまでずっと議論されてこなかった問題のため、両方に混乱があるということでしょう。それを克服するには新しい考え方が必要だということです。

 

二、日本が植民地支配の違法性を認めたことはない

 

冒頭で書いたように、これまで日本政府が植民地支配の違法性を認めたことはありません。ですからこれは簡単なことではありません。

そもそも戦後の日本社会では、違法か合法かという以前の問題として、朝鮮半島の植民地支配に対する反省自体がずっと曖昧にされてきました。その最大の原因は、戦前、侵略と植民地支配を推進した人々が戦後政治の中心にあったことです。それでも「侵略」のほうは東京裁判で裁かれるなど議論の対象になってきましたが、「植民地支配」のほうは東京裁判で訴因とならなかったこともあり、議論になること自体があまりありませんでした。

しかも、信じられないかもしれませんが、革新側も長い間、植民地支配の責任を追及することはありませんでした。一九六五年には日韓条約反対闘争が日本と韓国の両方で闘われました。韓国側で反対の論拠となったのは植民地支配の責任が曖昧にされていることでしたが、日本側の反対の論拠にはその問題はありませんでした。国会では野党も日韓基本条約反対の論陣を張りましたが、社会党や共産党が追及したのは、なぜ反共軍事独裁国家である韓国とだけ関係を回復して経済援助を行い、北朝鮮を敵視するようなまねをするのかということでした。野党がそういう状況でしたから、植民地支配の問題に関心を持っていたのは、学者を含めごく一部に限られていたのでしょう。

九〇年代初頭になり、元慰安婦の方々が名乗り出て日本を裁判に訴えたことは、植民地支配の過去に対する日本国民の認識に猛省を迫る結果となります。左右を問わず、ある種の反省の気持ちが生まれたと思います。

ただ、慰安婦の方々が問題にしたのは、自分たちが意に反して慰安婦にさせられ、悲惨な目に遭ったということでした。もちろんその背景には植民地支配の問題が横たわっていたのですが、直接に支配の違法性を問うようなことが議論されたことはありません。韓国においても、北朝鮮を敵とする日米韓軍事一体化を維持することが優先され、日本の植民地責任を追及する議論が政権内部から出てくることは、長い間なかったのです。

その結果、植民地支配の違法性は、これまで国民的な規模で議論されることはありませんでした。そんなことをいうと、違和感をもつ方が少なからずおられます。違法性など自明のことではないか、いわゆる村山談話などで日本は植民地支配の過去を謝罪してきたではないか、安倍政権が村山談話から逸脱するから今回のような問題になるのではないか、悪いのは安倍政権であって、解決策は安倍政権に村山談話を継承させることだ──そう考える人々です。

安倍首相が村山談話を軽視していることは事実でしょう。詳細は省きますが、戦後五〇年にあたっての村山談話と、七〇年にあたっての安倍談話では、植民地支配に対する態度は本質的に異なります。しかし、違法性の問題では、両談話に違いはありません。安倍談話に違法性への言及がないことは明らかですが、では村山談話はどうなっているでしょうか。関連部分を引用します。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」

安倍談話と異なり、村山首相が心から植民地支配をお詫びしたいと思っていることは、そこはかとなく伝わってきます。けれども、談話のどこにも、植民地支配が違法だったことへの言及はありません。談話の発表時、それに気づいた日本共産党の吉岡吉典参議院議員(故人)が質問したところ、村山首相は植民地支配が合法だったと以下のように答弁しました。

「韓国併合条約は当時の国際関係等の歴史的事情の中で法的に有効に締結され、実施されたものであると認識しております」(参議院本会議、九五年一〇月五日)

これがこの問題の到達点です。植民地支配の違法性を認めさせるには、これまでの追及の範囲では難しいことを理解していただけるでしょうか。

ただ、大事なことは、植民地支配の違法性をめぐる問題は、日韓関係にとって最後のカベだということです。これまで、韓国との関係において、慰安婦問題での河野談話、戦後五〇年の村山談話、六〇年の菅直人談話など、日本は謝罪を繰り返してきました。けれどもそれが韓国側の受け入れるところにならず、日本側の一部からは、「韓国はいつもゴールポストを動かす」という不満が出てきました。

しかし、一つだけ言えることがあるとすると、もし「日本の植民地支配が違法だったかどうか」に決着をつけることをゴールとして設定すれば、それは究極のゴールポストになることです。そのゴールポストは、そこから後ろに退くことはあり得ません。

結局、そのゴールを曖昧にしたまま、六五年の日韓条約と請求権協定が結ばれたことに、問題の根源があるのです。そこに問題があることを日本も韓国も分かっていたのに、戦後、北朝鮮や中国に対抗するための日米韓軍事一体化が何よりも優先され、植民地支配の問題に決着をつける必要性から両国政府とも逃げてきました。

ですから、韓国の国会議長の提案のように、両国企業が自主的に基金をつくるというようなものは、それを期待する人があるかもしれませんが、問題の根源にメスを入れないものであるため、真の解決策になりません。ゴールポストとしてふさわしくないので、結局は破綻するでしょう。たとえ時間がかかっても究極のゴールポストを設定し、それにどうやって向かっていくのかという努力が必要なのだと思います。

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