歴史事実と歴史認識

「軍慰安婦」、ファシズム、帝国意識などから考える

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【対談・上】

宮地正人さん(日本近現代史)

吉見義明さん(日本近現代史)

 

社会運動史の研究から

 

宮地 吉見さんは日本の歴史研究者でいまもっとも世界的に知られた人じゃないかと思います。吉見さんが防衛庁防衛研究所図書館で発見した「慰安婦」に関する資料を、朝日新聞が1992年1月11日の朝刊1面で「慰安所への軍関与示す資料 防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」と掲載したことから、いわゆる「従軍慰安婦」が日本政治の大きな問題になりました。あなたは1946年生まれ、ぼくは44年生まれで2年の差がありますが、歴史学でいちばん大事な資料発掘、そこに過去を知る扉の鍵があり、それを託されている歴史研究者として、しかもちょっとした先輩として非常に誇りに思っています。

今日は、2004年刊行の『毒ガス戦と日本軍』(岩波書店)は取りあげないで、1987年の『草の根のファシズム』(東京大学出版会)、1995年の『従軍慰安婦』(岩波新書)、それから2010年の『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(岩波ブックレット)、2014年の『焼跡からのデモクラシー――草の根の占領期体験』(岩波書店)、そして2019年の『買春する帝国』(同)という流れで話をすすめていきたいと思っています。この間には、2013年7月に桜内文城(当時衆院議員)が日本維新の会党首の橋下徹さんの記者会見のときに、あなたの著書はねつ造だといいたて、名誉毀損で訴訟を起こしました。ぼくは簡単に勝てるのではないかと思っていたのですが、2017年6月に最高裁が上告棄却というとてつもない決定を下した。これにはびっくりしました。『買春する帝国』は、その苦い体験を通じて、もう一度日本軍「慰安婦」の問題を歴史的に深めようとする、非常にいい研究だとぼくは思っていますが、それが発表されました。

そこでお尋ねしたいのは、あなたは満州事変の問題もふくめて、最初は社会大衆党とか、社会運動の研究をしていたと思うのだけれど、戦争と民衆をテーマにした87年の著書の執筆は何か大きい転換があったの?

吉見 ぼくは社会運動史をやるつもりはもともとなかったのですが、修士論文で「田中義一内閣の対社会主義政策」ということで治安維持法の問題や無産政党の問題を取りあげたんです。その後、なんとなく社会運動史の研究に行って、労農派の研究なども行い、日本の人民戦線運動の発掘をやるようになっていったんですが、もっと広い世界を見たいなあと思うようになったわけです。升味準之輔さんが、天眼鏡のなかの恐竜を見て議論してもしようがないじゃないかといわれていましたが、そういう気分のときに、藤原彰さんが編集した『日本民衆の歴史』第8巻で「満州事変と民衆運動」を担当して、こういう方向もあるかなと思っていたんです。

もう一つは、粟屋憲太郎さんがやろうとしていましたが、日本ファシズム論をやってみようかなと思い始めていた。政治体制の研究ですね。それで「満州事変論」を書く機会があったので、それを発展させていこうと思っていたのです。

ところがちょうどそのころ、二つ、ぼくにとっては大きな事柄がありました。一つは1981年だったと思いますが、当時都立大にいた小谷汪之さんから、現代歴史学研究会へ参加しないかといわれた。なぜぼくに声がかかったのか。たぶん宮地さんが断ったからではないかと思うんですが……。

宮地 そんなことはない。まあいいや、それはおぼろげな話で……(笑い)。

吉見 そのなかで日本ファシズムの研究をやろうと思っていたのですが、メンバーの反応があまり芳しくなくて、「そういう在来のテーマではなくて、新しい見方をしたらどうか」といわれて悩みました。民衆と戦争というか、民衆の戦争責任というやっかいな問題もあるので、それに取り組んでみようと思うようになった。ちょうどその時期に『資料日本現代史』(大月書店)の「日中戦争期の国民動員」の編集に参加したこともあります。

もう一つ大きいのは『草の根のファシズム』と直接かかわらないんですが、1982年に歴史教科書問題が起こりました。そのときに、江口圭一さんが、我々は歴史を研究しているのに、アジア太平洋戦争で何が起こったかまったく知らないじゃないかといわれました。教科書問題がきっかけになって、南京事件調査研究会というのができますね。ぼくは少し遅れてこれに参加しますが、粟屋さんはすでに参加していて、毒ガス戦の研究を始めていました。それでたまたまぼくも資料を見つけて、粟屋さんと一緒に毒ガス戦の研究をやるということになりました。だからこの段階は二足のわらじというか、「草の根のファシズム」の研究と戦争犯罪の研究と両方をすすめるということになります。

 

草の根のファシズムと「帝国意識」

 

宮地 その『草の根のファシズム』ですが、ぼくがおもしろいと感じた、ごく個人的な読み方をいっておきます。

きわめて多くの一般兵士の記録をよく集めたということ。運動する人間ではなくて、民衆から見る戦争というものにこれだけよく絞ったのはたいしたものだなというのが一つ。それから12月8日の太平洋戦争の勃発で明るくなったという雰囲気を相当多くの人間が持ったということね。伊藤整や太宰治、志賀直哉までがそうだったというのはなぜだろうという問題。あなたは、12月8日に静かな安堵感、欧米コンプレックスの強い青年層や知識人に共通した気持ちの転換、印象があったという。これは良かれ悪しかれ事実だとぼくも前から感じていたので、それはそうだなあと。

この本のなかで、取りあげる場によって日本人の感覚もかなり違うということも教えられました。中国戦線では、日本軍が完敗する以前に降伏したということから、中国に滞在した日本人には、指導者意識とか優秀民族意識とかがそう簡単に消えない。ところがフィリピンでは違う。フィリピンでは、中国戦線と同じように師団規模の戦闘が行われた唯一の場所だけど、敗走に次ぐ敗走です。この経験は非常にリアルなものがあります。

それから天皇制ファシズム体制の拘束性、あるいは民衆意識に対する天皇制の拘束力という問題です。繰り返しいっている。これはあとで議論したいテーマですが、「帝国意識」が壊れていないという問題です。これも事実としてはその通りだなあと。ただし、それと並行して、それを否定するかたちではなくて、国民国家を超える理念というのが戦後の日本人に生まれてきた。平和、戦力不保持、非核三原則、専守防衛、そして武器輸出禁止というような国民国家では生まれない理念を、戦後、帝国意識が壊れていない流れのなかで出てきたというのをどう考えるか、というのがあなたの課題になってきているとぼくは読みました。

これだけよく資料を集める苦労話をぼくは聞きたい。しかも日本人だけではなくて、沖縄、アイヌ、ウィルタ、それから朝鮮、台湾という比較もきちんとこのなかに組み入れているでしょう。それからあと一つは、それと関係して日記というのはぼくも幕末維新で使うのだけれど、人に見せるつもりではないから、なかにいわれている言葉と事件がよく分からない。日記を読んですうっといくような戦後の日記ではない。一個一個調べたうえで日記を解釈しなければいけないという問題が、歴史研究のなかで、とくに個人の日記を扱う場合にはぶつかります。そのうえで印象に残った資料などないだろうかということ。

 

直接話の聞ける時代

 

吉見 研究をはじめた時期的な問題があると思うんです。1980年代になって、ちょうど若者のころ戦争に参加した人たちが現役を退き始め、自分の過去を振り返り、自費出版本とかを出し始めた。かなり大量に出てきました。それにたまたま恵まれたということですね。国会図書館に行けば、そういう体験記がいっぱいありました。それを出してもらって、おもしろそうなのを選り分けていく。そういう作業ができたというのが一つはある。もう一つは、まだ書いた人が元気で話を聞けるということがありました。

宮地 そうか。分からないことは聞けばいいんだ。

吉見 そうなんですよ。ただ、日記とか回想記を書くことができたのはだいたい高等小学校卒以上の人なんです。そういう記録を残さなかった人たちをどうやってつかまえたらいいのかという課題はいまも残っています。気になっているのは、企画院(戦時期に物資動員など重要政策を企画立案した内閣直属の機関)が1937年の秋ぐらいに「事変下における農山漁村の思想動向」という調査を行っているんですね。ぼくの本でも使っています。かなり大雑把なものですけれども、農山漁村で中流以上は「しっかり戦争をやってほしい」、下流は「早くやめてほしい」というまとめ方をしています。この、早くやめてほしいと考える人たちをどうつかまえるのかがうまくできなかったかなと思います。

もう一つは、1940年に文部省が壮丁思想調査というのをやっています。「昭和十五年度壮丁思想調査」、これは徴兵検査を受けにきた若者に住所と名前を書かせてアンケートを取るんです。分かっている人は本心を書かないと思うんですが、それでもある傾向が出ていて、「この戦争はどんなに苦しくても頑張らなくてはいけない」というのに○をつける人の割合は、無就学者では20%ぐらいしかいないのが、学歴が上がるにつれ、高等小学校卒くらいになると90数パーセントが○をつけています。さらに高学歴になるとちょっと下がるんです。そういうふうに考えない無就学の人たちはいったい戦争をどう思っていたのか。そのへんがよく分からないという問題はいまも感じています。

それからもう一つは、元兵士から聞き取りをするなかで、「これはオフレコだけど」というのがけっこうあって、非常に印象に残っているのは、激戦のなかからかろうじて日本に帰ってきて、昭和天皇が生きているということを聞いてびっくりする。それで、天皇のニュースとか、テレビで姿を見ると差し違えたくなるということをいう人がいるんです。そういう声があまり出てこない、伝えられないというもどかしさは感じていますね。

宮地 あなたのお仕事はかなり時期が良かったわけですね。

吉見 そうですね。ちょっと紹介したいのは、新美彰さんというフィリピンの山中に逃げて非常に苦労した女性がいます。順子ちゃんという赤ちゃんを連れて逃げて、その赤ちゃんが亡くなるのですが、その鎮魂のために戦後も書いたり、紙芝居をつくって廻り、話をしていた人なんですけれども、1976年に出された私家版の彼女の回想にはフィリピンの人々に迷惑をかけたと書いているんです。

しかし、帰ってきて落ち着いて、50年代ぐらいにまとめた記録は違う。フィリピンから帰国する際、列車で船まで移動するときに地元の人たちから石を投げられて、「死ね」とか「バカヤロウ」といわれるんですね。そのときの彼女は、あんたらに負けたんじゃない、とものすごく反発している。

それが、どこでどういうふうに変わったのかよく分からなかったんですが、聞いてみたら、生活が落ち着いて何度もフィリピンに行って、娘さんが亡くなったところへも行っているんですね。そのときに、山のなかに日本兵の慰霊碑がいっぱい建っているのを見る。日本人のものだけ。しかも、慰霊団の人たちは現地でかなり横暴な振る舞いをする人もいる。これはおかしいんじゃないのと思い始めるんです。それで、たまたま出会ったフィリピン人の女性と話したら、彼女は「自分も息子を亡くした」という話をする。そのときに初めて、ああ、辛い思いをしたのは私だけじゃないんだと気がついて変わっていくんです。

そこにいくまでかなり錯綜した状態が続いているということが分かりました。日記なり回想記なりがあって、それと本人の話を聞くというのがいちばん望ましいのですが、なかなか難しいですね。

宮地 そうですね、分かります。それが、「従軍慰安婦」研究へ転身するわけでしょう。あなたがアメリカに留学したのはプランゲ文庫研究と敗戦後の日本の民衆史研究を、87年の『草の根のファシズム』の続きでやるはずだったのが、変えられちゃったということだから、これはお聞きしたい。

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