在り得べき「もう一つの世界」へ

――徴用工問題をめぐって考えたこと

中村一成

なかむら・いるそん | 

1969年まれ、ジャーナリスト。著書に『映画でみる移民/難民/レイシズム』(影書房)など。


【次世代からの問題提起】

あったことをなかったことにして誕生した「戦後」

 

世界は「嘘」の上に咲いた仇花である。徴用工問題を通して再認識したことだ。

フランスの宗教史家、E・ルナンの言葉「国民とは忘却の共同体なのだ」を捩れば「国民とは欺瞞の共同体/嘘を共有する共同体」といえる。一つの混迷が収束を方向づけられると、明々白々な歴史的事実への責任が胡麻化され、やがて不問に付される。得てして被害者の口がその嘘で塞がれ、欺瞞を分かち持つ者たちによって新たな「世界秩序」が始まる。

はじめに欺瞞ありき。この国の「戦後」はその悪しき証明だ。二つあげる。一つ目は言うまでもない天皇だ。侵略戦争と植民地支配の主犯である裕仁がその人道に対する罪を免責され、沖縄を米国に「献上」し、東京五輪の開会式で国際社会に返り咲く。記者会見では、自らの決断、早期講和の拒否が招いた原爆投下について「やむを得ない」と開き直り、自身の戦争責任を訊かれれば「言葉のアヤ」「そういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と嘯いた。そんな恥知らずが他人の血液を注入され続けるというグロテスク極まる措置で「天寿」を引き延ばすだけ伸ばしたのだ。

仲間だった「悪の枢軸」のトップたちと比すれば、日本の「異常」は際立つ。ヒトラーは進退窮まり恋人を道連れに自殺、ムッソリーニは第二次大戦に参戦した後、失脚、パルチザンに捕まり銃殺され、他のファシストと共にミラノの街頭で逆さ吊りにされた。私は裕仁でも死刑にすべきではないと思うが、なぜ彼だけが何の責任も取らなかったのか。当たり前に考えれば分かる不正がこの国の再出発にあった。岸信介氏ら米国の手先となった戦犯の免責も含め、この明確な誤りを自明としたからこそ、呼吸するように嘘をつき、追いつめられると虚偽に法や現実を合わせようとする安倍晋三が二度も宰相の座につき、朝鮮人や部落民、捕虜らを使役し抜いて財を成した麻生グループの御曹司が副総理の座に居るのだ。

だから私は、田中宏氏(アジア関係史)への聴き取りをまとめた編著『「共生」を求めて』(解放出版社、二〇一九年)の第一章冒頭、音楽でいえばテーマ部分に、院生時代の彼が出会ったインド人留学生メタさんの逸話を置いた。夏季休暇で帰省する田中氏に随行し、岡山に赴いた留学生は、地元青年たちとの懇談会に臨む。「日本で一番驚いたことは?」と訊かれた彼は、こう答えた。「天皇が健在で、首都東京のど真ん中にあんなに大きい居を構えていることです。私は、天皇はすでに退位しているか、どこか離れ小島に隠居していると思っていました」。

天皇の延命、天皇制の存続など、国境の向こう側から見れば有り得ないこと。そんな存在を「国民統合の象徴」とし、一条から八条までをその規程に充てているのが二つ目の欺瞞、現憲法である。その次には天皇制存続と引き換えの九条が置かれ、次に来るのは「国民の要件」を別に法で定めるとした十条である。続いて「国民」を享有主体に規定した基本的人権条項の数々が並ぶ。大日本帝国憲法一八条の「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」をモデルにした十条は、マッカーサー草案一六条にあった「外国人差別の禁止(国籍による差別の禁止)」を外して入れたものだ。憲法の構造自体に、植民地時代の内地戸籍、外地戸籍の違いから国籍の違いを軸にしたレイシズム再編の痕跡が刻み付けられている。

一九四五年一二月の衆院議員選挙法改定時、女性への参政権付与と表裏でなされた旧植民地出身者の選挙権停止(政治的意思表示の権利剥奪)。一九四七年五月二日、現憲法施行前日に出された裕仁最後の勅令「外国人登録令」。そして一九五二年四月二八日、「主権回復」と同時の国籍喪失……。三度の「外国人化」の狙いは朝鮮人の不可視化と無権利化である。日本の戦後とは「『朝鮮』[をはじめとする旧植民地]の消去の上になりたって」(権赫泰)きた。「植民地責任」を「なかったことにする」ことでこの社会は「戦後」なる時空を誕生させたのだ。

さて徴用工問題である。徴用工とは、労務動員の三段階、即ち「募集」(一九三九年九月開始)、「官斡旋」(一九四二年二月開始)、「徴用」(一九四四年九月開始)のうち、拒否すれば刑罰が科された「徴用」のみを指すと考える人もいるだろう。実際、大法院判決に激怒し、隣国・隣人への対決姿勢をアピールし続ける安倍は、最初に大法院で勝訴した対「日本製鉄」訴訟の原告四人が「募集」に応じて渡日したことをあげつらい、彼らを「旧朝鮮半島出身労働者」と言い換えている。細部に言い掛かりをつけて全体の信頼性を貶め、否定しようとするネトウヨレベルの詭弁だが、知性と品性の欠落を曝け出している。

 

見るべきは強制性と奴隷制の実態

 

一九四三年一二月に施行された軍需会社法、軍需会社徴用規則の規定では、募集や官斡旋で「軍需会社の軍需事業」に動員した者を現地で「徴用」の身分に切り替えることができた。戦況の悪化に伴い、軍事企業には際限ない権限が与えられていったのだ。そもそも初期の募集段階から、断れば肉親に危害を加えるとの脅迫や、直接の打擲、さらには「日本に行けば働きながら学校に行ける」「二年働けば技術者として正社員採用する」などの甘言(技能実習生の原型だ)を弄しての人集めは実態として行われていた。「赤紙」(召集令状)に模して「白紙」とも言われていた徴用令状すら示されず、奴隷労働を強いられた人も少なくない。強制労働は日本の少なからぬ裁判で認定されている。彼らの労働状態については国際労働機関(ILO)も強制労働条約違反と断じている。まともな賃金も払わずに無理やり働かせて、敗戦後は補償もせずに放り出した。三段階のどの時点かではない。この「騙し」(「強制」の一類型)も含めた動員の強制性、離脱を許さぬ奴隷性の実態を見なければいけない。

ここで朝鮮人の「徴用」認識を示す参考例に、京都府宇治市の在日朝鮮人集住地域「ウトロ地区」で聴き取った話を挙げておきたい。同地区は、国策会社による軍需飛行場建設で、日本各地で働いていた朝鮮人労働者を募集、現場横に設けた飯場に住まわせたことを形成起源とする。私が聴き取りをした同地区の在日一世たち複数やその子どもたちが応募理由の筆頭に挙げたのは、「『飛行場建設は国策事業なので、徴用に取られずに済む』と言われたから」だった。朝鮮人の間で、いかに「白紙」が恐れられていたかが分かる。

さて、元徴用工たちが告発したのは「あったこと」を「なかったこと」にする「嘘」だ。一つの起点は、米国の都合で進められたサンフランシスコ講和会議である。これに先立ちルーズベルトとチャーチル、蒋介石が戦後の対日方針の枠組みを話し合った一九四三年一一月のカイロ会談では、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ<RUBY CHAR="軈","やが">テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」と宣言に記された。字面でみれば、講和会議では日本が朝鮮人に対して行った労働、戦争動員や人権侵害への補償なども問題になるのが自然だが、実際は議題化しなかった。

何故か? その前に日本から提出された極秘文書「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」(一九四九年一二月三日)に、それを推察する鍵が含まれている。日本は連合国側にこう要望していた。

「これら地域(朝鮮、台湾―筆者注)はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、世界各国とも久しく日本領として承認していたものであって、日本としてはこれら地域の放棄に依存はないが、過去におけるこれら地域の取得、保有をもって国際的犯罪視し、懲罰的意図を背景として、これら地域の分離に関連する諸問題解決の指導原則とされることは、承服し得ないところである」。

韓国併合は合法であり当時の国際常識に基づいている。ゆえに懲罰は認められないとの意だ。もう一つ注意すべきは領土の分離という認識である。戦争状態ではないので謝罪や補償の対象ではないとの意だ。加えてこう主張する。「日本のこれら地域に対する施策は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでないことである。逆にこれら地域は日本領有となった当時はいずれも最もアンダー・ディベロップな地域であって、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもっぱら日本側の貢献によるものであることは、すでに公平な世界の識者――原住民を含めて――の認識するところである」。この後の日韓国交正常化交渉を貫き、そして現在の徴用工問題にまで引き継がれている日本の根底的認識「植民地支配正当論」だった。

日本の旧植民地などを省いてなされた会議で、この陳情に異論がでたとの記録はない。そもそも日本の朝鮮侵略は、戦勝国の英仏などが先んじて進めた植民地支配の模倣だった。彼らにとって植民地支配が不法との認識はなかった。あるいは返り血を浴びる議題に向き合う意志はなかったのだろう。サンフランシスコ講和とは、帝国主義国(≒戦勝国)の「戦後処理」だった。

韓国と日本の間の財産、請求権については、両者の「特別取極の主題」(四条)として当事者に丸投げされた。それに基づいて始まったのが一九五一年からの日韓交渉だ。公開された議事録や各種文書が示すのは、「(日本は支配で)多くの利益を韓国人に与えた」「日本が進出してなかったら、韓国は中国かロシアに占領され、もっとミゼラブルな状態に置かれただろう」などの「久保田発言」(一九七三年)に代表される、植民地責任を徹底否認し、謝罪と補償を拒否する日本の姿勢だった。欧米植民地帝国の理屈「文明化の使命」を劣化コピーした言い分は度々噴出、交渉は幾度も中断する。間には「李承晩ライン」と日本漁船拿捕に伴う緊張の高まりや、朝鮮民主主義人民共和国への帰還事業を巡る韓国側の反発も挟みつつ、七次に及ぶ交渉は一九六五年に妥結に達した。採用されたのは経済協力方式である。賠償でも補償でもない。「植民地責任」は決着しなかった。

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