小沢一郎論

城下賢一

じょうした・けんいち | 

1975年まれ、政治学、大阪薬科大学准教授。著書に『「18歳選挙権」時代のシティズンシップ教育 : 日本と諸外国の経験と模索』(共著、法律文化社)など。


1.なお盛んな小沢の政治活動

 

小沢一郎は一九四二年五月二十四日に生まれ、今年、七十八歳を迎えた。一九六九年総選挙に二十七歳で初当選し、現在まで十七回にわたって連続当選をかさねてきた。昨年には在職五十周年を迎えたところである。

傘寿を目前にしながら、小沢の政治活動はなお活発である。二〇一二年に民主党を離党してからは小党を率いてきたが、安倍内閣の打倒のためには非自民勢力の結集が不可欠であるとし、二〇一九年四月、民主党の後継政党の一つである国民民主党に合流した。そして、他の野党に対しても野党合同を働きかけた。二〇一九年参院選で野党全体の得票が減少したこともあって野党内にも合同の気運が高まり、九月、立憲民主党、国民民主党などで野党統一会派の結成が実現した。小沢は統一会派に飽き足らず、さらに進んで合同を実現するよう各党幹部に働きかける様子が報道されている。

 

2.小沢の政治的歩み

 

小沢の動きに対して警戒や疑いの眼差しを向けるものは多い。彼は何かを作っては壊すような行動を繰り返し、「壊し屋」とも呼ばれてきたからである。

小沢は田中角栄や金丸信の引き立てを受け、一九八九年には四七歳で党幹事長になるなど、若くして自民党内の有力者となった。幹事長として選挙の指揮を取り、一九九〇年総選挙に勝利し、その後には党内最大派閥の竹下派の会長代行として権力を握り続けた。しかし、一九九三年には竹下派内部の対立をきっかけに自民党を離れた。小沢らの離党の影響で自民党は同年の総選挙で衆院の過半数の議席を確保することができずに、いったん下野に追い込まれた。

自民党を離党した小沢は、自民党政権にかわる非自民連立政権の樹立と運営を主導したが、細川護熙首相の政治資金スキャンダルに加えて連立政権を取り仕切る小沢のやり方が強引であるとして、社会党や新党さきがけが不満を募らせた末に離脱を決定した結果、一九九四年、連立政権は崩壊し、かわって自民党が社さ両党と連立政権を組み政権への復帰を果たした。

非自民連立政権はあえなく一年で崩壊したが、小沢は改めて自民党にかわりうる勢力を作るため、非自民連立政権に参加していた各党にも参加を呼びかけ、同年末、新進党を結成した。小沢は最初には幹事長、後には党首を務め、一九九五年参院選でも勝利をおさめた。しかし、党首就任後の国政選挙である一九九六年総選挙では、新たに民主党が結成されて野党内に有力なライバルが出現したこともあって、新進党の当選者は改選前の一六〇議席を下回って一五六議席に留まった。期待を下回る結果に党内では党首の小沢に対する批判がまた高まるようになり、年末から翌年にかけ、有力者の離党や公明党勢力の離反が続いた。ここで、小沢は党内批判を抑えるのでなく切り捨てる決断を下し、せっかく結成された新進党はわずか三年で潰えるという結末を迎えたのである。まだ一定の勢力を持つにも関わらず、なおかつ党首であるにも関わらず新進党を解散させた小沢には、「壊し屋」のイメージが植えつけられた。

新進党解散後、小沢は新たに自由党を結成して次の機会を伺ったが、期待に反して引き続き小沢と行動をともにしようとする議員は衆参あわせて約五十名にとどまり、野党勢力の中心は民主党に移った。一九九八年参院選は消費税率引上げやその後の景気低迷で支持率が低下した自民党・橋本内閣が大敗北を喫し、参議院での過半数議席を失うほどだったが、野党で議席をのばしたのは民主党や共産党で、自由党は現有勢力の維持に成功した程度であった。

小沢自由党の勢力を活かすためにも、他党との連携が不可欠であった。ただ、民主党は建設的な野党を標榜し、参院選直後の勢いのある時期に開かれた国会(いわゆる金融国会)でも自民党・小渕恵三政権による法案成立に協力し、小沢からみて政権を奪取しようという信念を看取することができなかった。これに対し、自民党は金融国会を乗り切ったものの参議院で過半数を失ったままで政権運営を成功させることはできないと判断し、公明党とともに自由党にも連立政権組織の誘いをかけた。自民党の本当の狙いが公明党にあることを知りつつ、小沢は自民党との連立を決断し、同一一月、自自連立に踏み切った。しかし、自自連立当初こそ小沢の主張に沿った統治機構の改革が次々に行われたが、公明党が参加して自自公連立政権になると、小沢の主張は放置されるようになった。このため、二〇〇〇年、小沢自由党は連立を解消した。自由党内には連立解消に反対する議員も多くいたが、彼らと決別してでも小沢は離脱を選択した。

連立離脱後、小沢はしばらく独自路線を歩み、党勢の拡大を目指したものの、同年の総選挙や二〇〇一年参院選では微増に留まった。新進党解散と自自連立解消とで小沢と行動をともにする議員は二十名ほどにまで減少しており、微増した程度では政界への影響力は限られた。

新たな一手が、二〇〇三年の民主党への合流であった。民主党は新進党にかわって野党勢力の中心となっていたが、小泉内閣に対する高い支持率の前に党勢が伸び悩んでいた。小沢は民主党への合流によって、再び自民党にかわりうる政党を作ろうとした。内閣終盤になっても高い支持率を維持した小泉内閣の反動とも言えるような状況で後継の自民党の各内閣は低い支持率に苦しんだのに対し、それにかわって民主党は支持率を高めた。二〇〇七年参院選、二〇〇九年総選挙で相次いで勝利し、小沢はついに再び政権交代を実現した。しかし、民主党政権は沖縄米軍基地の移設問題などで公約を実現することができず、東日本大震災という大災害に見舞われてその対応でも批判を浴び、消費税問題でも党内対立が激化し、毎年首相が交代する状況であった。小沢は党内対立をおさえるのでなく積極的に党内対立を激化させ、二〇一二年、消費税問題では野田内閣を批判して本会議で反対票を投じ、離党届を提出するとともに、民主党からは除名処分を受けた。同年末の総選挙で民主党は惨敗して自民党が政権に復帰したが、小沢が参加した生活の党もまた民主党以上に惨敗し、今回の国民民主党への合流まで、ごく小さな勢力としての活動を続けることになった。

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