「コロナ禍」からの教訓

吉田傑俊

よしだ・まさとし | 

哲学


いわゆる「コロナ禍」が世界を覆う世界大感染(パンデミック)を発生させ、すでに半年近くになる。世界中の感染者は約700万人、死者は約40万人に達しつつある(6月8日現在)が、いまだその脅威は去っていない。このコロナ禍への対処は人間との「戦争」とも位置づけられ、人々は政府や地方自治体から厳しい「外出制限」を要請され、生活と労働のほとんどの側面、飲食・通勤通学・他人との交際・文化スポーツ活動等々に、大きな規制を受けている。それは、「自粛」という名の一種の「強制」ともいえ、人類が築いてきた文明生活の一旦停止を迫られる事態でもある。

だが、この脅威の中でもさまざまなエピソードが伝えられる。その一つは、イギリスのジョンソン首相が、自らのコロナ感染の療養中に、「社会というものは、実際に存在する」と語ったことである。この発言がなぜ苦笑を呼んだかは、それが、サッチャー元首相の「社会というものは、存在しない」という言葉をもじったものとされるからである。ジョンソン首相は、現在も続く「新自由主義」のリーダーであった元首相の申し子と言われ、EUからの脱退を行い、NHS(国民保険制度)の民営化をも図るとされた人物である。サッチャー女史が20世紀末からの「弱肉強食」的資本主義のリーダーの一人で、競争的・利己的個人を主体とし、福祉的・協同的社会を軽視または無視したのは有名である。だが、ジョンソン氏が、医師や看護師らの医療体制の救護によって生死の危機を脱して、始めて「社会」の存在を認識したのはやや遅きに失したともいえるが、悪いことではないだろう。

 


 

さて、ジョンソン氏の「正気」恢復に関していえば、彼が死を意識したのは人間の「自然性」の限界認識であり、その危機を救助した人達への感謝は人間の「社会性」の認識であった。これをコロナ禍が人間の自然性と社会性を映し出した事象として捉え、人間にとってコロナウイルスはいかなるものか、またそれといかなる関係をとるべきかを、感染についての啓蒙書の石弘之『感染症の世界史』、山本太郎『感染症と文明』などに拠りつつ、少し考えたい。

最初に認識すべきことは、人間とコロナ・ウイルスは共に「自然的」存在ということである。感染症が人類の脅威となったのは、農業や牧畜の発明によって定住化し過密な集落が発達し、人同士或いは人と家畜が密接に暮らすようになったことによる。農地や居住地のために熱帯林の開発が急ピッチですすみ、人と野生動物の境界があいまいになった。このため、本来は人とは接触のなかった感染力の強い新興感染症が次々に出現した。つまり、感染症は、人間の「文明化」とともに出現した。

だが、人々が地球に住むかぎり、地震や感染症から完全に逃れえない。地震は地球誕生からつづく地殻変動であり、感染症は生命誕生から続く生物進化の一環であるからである。そして、微生物は、同時に我々の生存を助ける強力な味方でもあるという。つまり、生物は感染したウイルスの遺伝子を自らの遺伝子に取り込むことで、突然変異を起こして遺伝情報を多様にし、進化を促進してきたと考えられるというのである。この遺伝子はさまざまな働きをしており、医療現場で実用化が進められている遺伝子操作や遺伝子治療も、ウイルスを媒体にして行われるという。かくて、人間とコロナウイルスは、広義の意味での「共生」関係にあることである。この事実はなにを意味するのか。それは、人間は「地球内存在」という厳然とした事実であり、自然の支配者というべき人間の自負を反省させ、その自然環境破壊等への強い自制を改めて認識させることといえよう。

では、つぎに人間とコロナウイルスの「共生」関係はどうあるべきものかという問題が生じる。この関係は人間が病原体にいかに対応するかに関わり、両者のより「自然的」形態と、より「社会的」形態があるといえる。一般に、微生物と人間を含めたその「宿主」の関係は、一つは宿主が微生物の攻撃で敗北して死滅する場合で、微生物も宿主と運命を共にする。他の場合は、宿主と微生物が和平関係を築くことであり、この段階が両者の「共生」段階とみなされる。「共生」策の周知の一つは、病原体の根絶は不可能であるとの観点からする、「集団免疫」策とされる。それは、流行の進展とともに、感染性をもつ人が接触する人のうち感受性を持つ人の割合が低下すること、つまり免疫を獲得する人々の割合が増加すること、それを流行終息の主な理由とみなすいわば「自然治癒」策である。ただし、目の前に致死性を有する感染者が存在するかぎり、ウイルスとの「共生」は「心地よいとはいえない」妥協の産物と位置づけられる。

だが、一定の感染率の達成によって個々の感染病の終息とみなすこの「集団免疫」策のみでは不十分とみられ(今回のスウェーデンでの「死者突出」報道)、現に実施されているのが感染者の重症化の阻止や、在宅自粛や都市封鎖も必要とする緊急対策である。ワクチンの早期開発以外のこうした方向は、つぎのように指摘される(美馬達哉「感染までのディスタンス」《『現代思想』2020年5号》)。感染症防疫の社会的な方策は「非製薬的介入」と呼ばれ、一つは「集団免疫」策であり、他のものは「封じ込め」策である。前者は、集団としての免疫とウイルスの平衡状態まで耐え忍ぶ「緩和」戦略であり、後者は、都市封鎖・全住民の外出制限などによって感染縮小を徹底して実行する「抑制」戦略とする。したがって、「自然との共生」は、概して、人間の社会性(権力的でない)による「自発的抑制」との「均衡」の重要性、の認識と実践であることになろう。

 


 

こうした現在の状況にもとづけば、人間とウイルスは長い歴史で「共生」的関係にあったとしても、ウイルスが人間に破壊的な作用を行う場合には、人間が地震や大津波に対処してきたように、その否定面に積極的に対処することが重要となる。我々は現在、世界的な規模での社会的被害や混乱の内にいるが、その基本的対策はなにか。中・長期的課題としては、人間による環境破壊や地球温暖化対策、過密大都市の分散化などをふくむ現代文明のあり方への厳しい反省と対処が迫られる。だが、より緊急に対処すべきは社会構造の歪みの是正であろう。今、世界を脅威に巻き込んでいるコロナウイルス自体は「中立」としても、それが世界中の人々に「平等」に関わるわけではない。コロナ感染者や死者数をみても、一国内では富裕層と貧困層、世界的には先進国と発展途上国とにおいて、被害の大きな格差を示している。つまり、コロナは、社会的強者と弱者との社会格差を導く社会構造の現実を露呈しているのである。

現在日本におけるそれらの顕著な事例が報道にみられる。まず、医療体制である。今回のコロナ禍で、コロナウイルスのPCR検査の少なさが指摘されるが、その窓口に当たる保健所の不足は、1994年の地域保健法制定に伴う保健所の統廃合によるとされる。その設置数は同年度の847から今年度の469に約半減したという。また雇用状態をみると、1990年代初頭のバブル経済崩壊後の「就職氷河期世代」において、非正規労働者は少なくとも50万人と推計された。しかるに、非正規雇用は氷河期末期の2004年から2019年の間に600万人以上へと増加した。ところが、コロナ禍のなかで、総務省の今年3月の労働力調査では、前年同月比で男性の非正規労働者が2万人、同女性は29万人も減り、母子世帯や単身女性への打撃が大きいとみられている。さらに、コロナ禍の影響は、国内ばかりでなく国際的にも大国の利己性や差別的構造を現す。コロナ禍の原因をめぐる「米中冷戦」やアメリカのWHO(世界保健機構)からの脱退の動向、さらに、国民皆保険制度のないアメリカでの、警官による黒人男性殺害を機にした世界的規模での抗議運動等はそれを示す。

ゆえに、このコロナ禍を機として世界中の人々に求められる教訓は、人間の「自然性」のもとに「自然との共生」を図るとともに、時に脅威として現れる自然に立ち向かうべく人類文明の脆弱性を反省し、「連帯」による全体としての人間の平等と安全を図る真の「社会性」の実現ではなかろうか。

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