コロナ禍に日本再生の基軸を考える

寺島実郎

てらしま・じつろう | 

1947年生まれ。日本総合研究所会長、多摩大学学長。著書に『日本再生の基軸―平成の晩鐘と令和の本質的課題』(岩波書店)など。


【特集】コロナと共に生きるということ

感染者は1千万人を超え、死者も50万人に達しようとしている(6月28日現在)。新型コロナウイルスの感染被害は止まらない。日本国内も感染者は2万人近くにのぼり、死者は千人を超えようとしている。思いがけない数字が次々に飛び込んでくる。たとえば、学校に通えない子どもたちが世界で15億人以上にのぼり、アメリカの4月の失業者2050万人。わが国はコロナ対策に56兆円を超える補正予算を決めたが、空前の規模とはいえすべて国債で賄う。これまでの分と合わせると国民一人あたり770万円ほどの借金になる。

それでも、10年後にはいい世の中になっているという希望があれば我慢も出来る。そうでないから、このコロナ危機に悩むところは深い。コロナは滅びないだろう。人類(人体)に入り込んで生息し、ときおり暴れるに違いない。とすれば、どう共に生きていくか。3満回避や社会的距離をとって暮らすことは当然としても、社会のあり方を変えないで事が済むとも思えない。これまでの何を守り、何を捨て、何を変えていくか。3・11後には取り逃がしたそれを、こんどこそ手にしたい。少なくともその議論と摸索を本気で始めたい。歴史の転換点はそう幾たびもないのだから。

コロナ禍に日本再生の基軸を考える

日本のメディアが果たすべき役割

最初に触れておきたいことが、日本のメディアが置かれている状況についてです。コロナの問題に向き合い、様々な分野の専門家と議論し、知見を得て発言しているうちに気がついたことがあります。

それは、日本における科学ジャーナリズムが枯渇してしまったということです。『科学朝日』などの科学雑誌が徐々に減っていることがその象徴です。その帰結として、例えば、政府の専門家会議に参加している委員の一人がこのまま何も対策を講じないと42万人死ぬだろうと発表し、メディアがそれを浸透させました。その翌日に、政府は緊急事態宣言を全国に発令しましたが、一体この論拠はなにか、無批判に受け容れてしまっていいのか、何の議論もなされません。 科学ジャーナリズムは本来、活字などを通じて、「本物かどうか」や「どこまで視界に入れているのか」などが見え、かつてはバランスのとれた科学の専門家が複数人いて、それらの人たちのスクリーニングのなかで、また、切磋琢磨のなかで育っていくという構図が出来ていました。しかし、現在はそれがないため、ごく狭い専門領域からだけでメディアに出てきてしまっていると思います。

その一例として、なぜニューヨーク州であれだけの死亡者が出ているのか、という点で言えば、私は十数年アメリカで過ごしていたのでよく分かりますが、ひと言で言えば、「格差と貧困」と「人種」です。コロナ感染の死者の7割以上がブラック、ヒスパニックの貧困層と言われており、なおかつアメリカには、日本のような国民皆保険制度はありません。そのような構図が背景にあり、5月末の状況だと10万人を超える死者をもたらしてしまったのです。冷静に、現実の数字を相対化して考えれば、総人口がアメリカの半分の日本で42万人死ぬ、という見方に異様さを感じるはずです。ところが、これが引き金になって、国民全員が凍り付いてしまった。思考回路が遮断されてしまうような状況をつくってしまったのです。

メディアというものには、本質を気づかせたり、視界に入れておくべきことを提示したり、私の言葉で言えば、「全体知」が必要なのです。「専門知」に対して「全体知」をどういう形で対比させて、どうあるべきかを示していくべきで、その意味で、今日のメディアが置かれている状況は、今回のコロナの問題があぶり出したものの一つだったと思います。

 

「吊り天井の経済」から脱却すべきとき

もう一つは、日本という国が抱えていた構造的な問題をあぶり出したという点です。いま私が盛んに言っているポイントは、今の日本経済は、アベノミクスに象徴されるような「吊り天井の経済」、つまり株価だけを金融緩和と財政出動で引き上げて、実体経済よりも何やら良い状況にあるかのように見せかける構造にある、ということです。本質的なところで進行している日本の埋没に対して目を覆って、あたかも一見うまくいっているかのように見せかけていたものが一気にコロナの問題をきっかけに吹き出てきました。

ここにある四つのグラフをご覧になっていただいたら分かるように、そのうち1988年から2018年の数字になりますが、平成の30年間での世界のGDPに占める日本の比重の変化を表しています。日本は平成がスタートしたときには16%の比重を占めていたのですが、平成が終わってみたら、6%というところまでに圧縮していました。21世紀に入る直前の2000年はまだ14%で持ちこたえていて、日本を除くアジアは日本の半分だったのです。

1950年、敗戦5年後ですが、日本の世界GDPに占める割合はわずか3%にすぎなかったものが、昭和の終わるときには16%に跳ね上がっていった。日本はその時代の残影をいまだに引きずっており、世界の中でも一流国だと思っています。ところが世界のGDPに占める割合は6%にまで落ち込み、日本を除くアジアの比重は、中国・インド・ASEANを含めて昨年、日本の4倍を超えました。実体経済において格段の差ができてしまっています。さらに、国際機関のあらゆる統計の予測は、日本を除くアジアが10年後には日本の10倍になる、日本の世界GDPに占める割合は3%程度になるだろうとも言われています。そこに、今回のコロナの問題で、中国・インドが先に実体経済面でプラス成長に転じてくることもあり、10年後ではなく5年後になってしまうということも、大げさな話でもないことになっています。

要するに、日本の世界GDPに占める比重は、このまま行けば、2025年から2030年の間、つまりあと5、6年のうちに一段と世界経済の中で埋没感を深めるだろうと思います。GDPの議論はマクロな話で、一つの指標に過ぎないですが、日本の埋没というのは、様々な国際会議に出て議論していると、もはや常識のようになってしまっています。

むしろ気がついていないのは日本人だけで、日本政府もそれを何とかカモフラージュしています。株価を引き上げるために、日銀がETF(上場投資信託)を買い入れ、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が年金積立金の5割を株式市場に投入しています。そのようにして、幻想としての繁栄を演じてみせているだけのようなものです。

マネーゲームで膨らませた経済は、実体では、株価が上がることによって恩恵を受ける少数の人と、そのようなことには一切関係のない多くの人、ほとんど若者ですが(株の72%は個人株主でも高齢者が保有していると言われています)、その格差を広げています。現実問題として、株を持っていない若い人たちにはほとんど恩恵が行かないような構図になってしまっているのが、アベノミクスなるものの実情とも言えます。

今示しているのは事実であり、そこからどのようにして日本人が知恵を出して、戦後日本を振り返って、日本の持っているポテンシャルはいったい何なのかということを、頭を使ってもう一回考え直さなくてはいけません。GDPというのは付加価値の総和です。ただ単に経済の生産力の問題だけではなくて、どうやって知恵を出し、額に汗して付加価値を生み出していくのかということについての指標に過ぎないのですから、もう一回、腰を入れ直して、「吊り天井の経済」の幻想、マネーゲーム経済から目覚めるべき時に来ていると思います。

このことは『季論21』ですでに論じ尽くしてきたとは思いますが、冷戦が終わってから30年間の世界というのは、ひと言で言えば、金融資本主義の肥大化だったと言えます。「ウォールストリートの懲りない人々」の跋扈であり、その間何回も金融危機を迎えながら、手を替え品を替え新たな金融商品等を生み出し続けてきました。冷戦期にペンタゴンが開発し蓄積した情報通信技術、この開放がIT革命であり、インターネットなるものはそういう本質を持っているのですが、この技術をも利用しながら、ものすごい勢いで新しい金融という世界を創り出してきました。

私はアメリカに十数年いて、その間併走していましたのでよく分かります。冷戦が終わって軍事産業を支えてきた理工科系の優秀な人材が金融という世界に就職していかざるを得なくなり、金融の世界が豹変し始めました。物理、数学、工学を専攻したような人々が世界の産業金融から、金融工学という新しい世界を創り出しました。新しいヘッジファンドやジャンクボンド、フィンテックなど、最近で言えば仮想通貨というような世界を創り出して、金融という世界をどんどん肥大化させていきました。

議論する人によっては歴史の必然だという人もいて、もう一方では、資本主義の死に至る病だという人もいます。私はどちらかと言うと後者に近く、それは実体経済論者だからです。額に汗して知恵を出して生きる実体経済こそ経済であって、経済という言葉が「経世済民」に由来しているように、民が豊かにならなければ、一見よく見えても、マネーゲーマーが潤っても、経済とは言えないという問題意識があるからです。

私はこの4月に『日本再生の基軸 平成の晩鐘と令和の本質的課題』(岩波書店)という本を出しました。これは今度のコロナを想定して書いたものではなかったのですが、最後の段階でコロナ問題が見えてきて、一段と問題意識があぶり出されているという思いでいます。『日本再生の基軸』は、そのままコロナ後の日本の方向性を語っていると思っています。

(以下は本文をお読みください)

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