内藤文七郎小伝

――筑波蜂起勢残党の行衛を尋ねて

宮地正人

みやち まさと | 

日本近現代史


問題の所在

筆者は幕末維新期研究を専門としてきたが、この巨大な歴史的変革期を立体的・構造的に?もうと考え、フィールドの一つに、武家・サムライ階級の支配が緩かで、豪農商や一般農民達がそれなりに主体的に考え行動しうる地帯を選んだ。島崎藤村の歴史小説の舞台『夜明け前』世界である。信州馬籠の木曽谷、その西の東美濃、そして東の南信州の地域一体は幕末から明治初年にかけ、平田国学の浸透下、全国的に見ても異様な程に活性化する土地となっていった。筆者は二〇一五年、研究に一区切をつけるため、『歴史のなかの「夜明け前」―平田国学の幕末維新―』を吉川弘文館の厚意で出版することが出来た。

しかし歴史研究に完了はありえない。心残りが多々あった侭、その一つが信州<RUBY 伴"野(ともの)の豪農松尾多勢子家に手厚く庇護されることになった筑波蜂起勢残党三名のことである。常州新治(にいはり)郡安食(あんじき)村(のちの出島村)の内藤文七郎と磯山与右衛門、同郡下玉里(しもたまり)村(今の小美玉市)の室町竹三郎、磯山と室町は在処の豪農で名望家の人々(内藤は不明)である。

この三名の内で磯山については東濃中津川史料の中に恰好の材料が出てきたので、御子孫の方のご協力も得て右の著書第七章に「筑波義徒磯山与右衛門の情報蒐集活動」を収めた。

出版した二〇一五年段階では、この三名は「(水戸)西上勢に関係しながら、何らかの理由で一行から離脱し、潜伏する人々」と判断、但し、こう断定出来るかとの疑念も拭い難く、第七章追記に「文中の内藤文七郎は筑波勢の中では水戸内紛介入に強く反対した人物であり、従ってこの三人グループは、あるいは筑波勢潮来(いたこ)南下勢に属し、からくも包囲網を突破、その後信州に赴いた可能性もあるが、今のところ断定するのは材料不足なので、本文のような記述をしておく」と歯切れの悪い留保をつけざるを得なかった。

気にかかりつづけていたこともあり、内藤文七郎に関し、その後いくつかの史料を集めることが出来、今日迄流通観念として固定してしまっている、「水戸の内紛に介入するのか、それとも尊攘の大義を即時決行すべく横浜を焼打ちするのかで一八六四(元治元)年八月末両派が訣別した」といった纏め方ではない、もう少し激動期の歴史の深奥を考えさせるヒントがあるのではないか、と思うようになったので、ここに一文を草することにしたのである。

 

一 筑波結集以前の内藤文七郎

支配階級たる武家・サムライ階級と被支配階級である豪農商・一般農民との関係は幕末期では地域によって千差万別の状況にあった。「夜明け前」世界と常州水戸藩領は正に対極の立場にあった。徳川斉昭のドラスティックな天保改革は藩内豪農商層のみならず多数の一般農民迄の支持を生み出し、斉昭を支え藤田東湖や会沢正志斎の理論的リードのもとに確立する公武合体こそ「御公儀」だとする尊王攘夷主義の水戸学は領内隅々にまで浸透し、農民迄もとりこむこととなる。そして一八四四年幕府の斉昭処分への雪冤運動や、五八~五九年安政大獄時の水戸藩弾圧、斉昭国許永蟄居処分、安島帯刀・茅根伊豫之介・鵜飼吉左衛門父子死罪判決に対し「天狗」とレッテルを貼られる改革派サムライ集団に指導されつつ、多数の農民達が義民として奔走することとなる。

また水戸学の影響を受けた農民達は水戸城下に赴き、信奉する尊攘派の<RUBY CHAR="重立(おもだち)に武家奉公人として仕えることにもなるのである。安食村の内藤文七郎もその一人、一八三〇年生れ(九四頁参照のこと)の文七郎は桜田門外の変の首謀者高橋多一郎のもとに奉公する。

但し多一郎は大獄の結審が五九年八月二七日に下る迄はその尊攘派首領としての行動を抑制せざるを得なかった。小姓頭取の立場上、老君斉昭への幕府処分に己れの行動が悪影響を及ぼすからである。むしろ水戸藩宛孝明天皇密勅降下工作に深く関与したのは、鮎沢家に養子に入っていた実弟伊太夫の方であった。彼は密勅降下工作のため上京する日下部伊三次に費用を用達てたり、京都との政治的連絡にも従事していた故に、大獄吟味のため五九(安政六)年五月から幕府評定所の取調べを受け、八月二七日には遠島処分を下されるのであった。

この判決を知るや、文七郎は他ならぬ多一郎の実弟、「私の古主多一郎同様相心得候間、何卒格別の思召を以、私へ其供仰付らるべし」と丁寧に水戸藩に出願、藩から幕府に申請し、幕府の許可も下り、文七郎は支度を調え、伊豆七島出帆の期を待つばかりとなったのである。

ところが、何らかの事情で、一一月一五日幕府は伊太夫処分を遠島から「豊後佐伯藩生涯禁錮」に変更、伊太夫は六二(文久二)年一二月迄同藩に禁錮され続けることとなる。

桜田門外の変の具体的なスケジュールが確定するのは、この年一二月一八日、登城した水戸藩主徳川慶篤に井伊大老より「京都から前年八月八日付密勅を幕府に戻すよう幕府宛勅書を戴いた、取急ぎ幕府宛返納すべし」との厳命が達せられたことによってである。勅書返納に反対する水戸藩激派のサムライと郷士達は水戸城内に納められている「密勅」幕府宛返納を阻止すべく、水戸街道南出口長岡に一二月二〇日頃から多人数が屯集、容易ならざる状況を呈し始めた。その首謀者が高橋多一郎と金子孫二郎、この阻止行動と併行して以前から薩藩江戸藩邸内同藩尊攘派との間で談じられ、当初はむしろ薩藩側の方が積極的であった井伊大老暗殺を第一段階、その成功を前提に第二段階として薩藩尊攘派数百名を上京させ、朝廷を擁し幕政変革断行とのプランが具体的に煮つめられていくのである。

このプランは、長岡屯集運動が成功するならば不要のものとなっただろうが、老君斉昭自身が幕府宛返納を阻止する者は君臣の義・主従の義に反逆する者共と正面から封建イデオロギーをかざして決めつけ、長岡屯集勢への藩討伐隊が発遣される事態に及び、高橋・金子グループは、二月二二日、長岡屯集勢を解散させ、脱藩し「主従の義」を脱し、天下国家を直接主体的に担うサムライ、「天下の志士」として処士横議・諸藩有志連合の中で、幕政変革を実現する挙に踏み込むのだった。

しかしながら、薩長などの外様大藩ならともかくも、天朝あっての自藩存立との天狗派的水戸学解釈は、その成立以来宗家あっての「御親藩」、宗家あっての「副将軍家」、「宗家と共に立ち宗家と共に亡ぶ」との意識が強烈であり続けた水戸藩では支配的になることは決してありえなかった。この脱藩から王政復古迄、水戸藩ではそれぞれの正統性をかざしての悽惨極まりない殺し合いが一般農民迄も引きずり込みつつくりひろげられていく。

ところで第一段階の総責任者は金子孫二郎と関鉄之助、第二段階の総責任者は高橋多一郎となり、多一郎父子は黒沢覚蔵・大貫多介・小室治作を伴い、中山道経由で三月六日大坂に入った。以前から同地には同志桜東雄(あずまお)や島男也が滞在し高橋らと連絡をとりあっており、また多一郎らの西上に先立ち、桜・島のもとで京坂の状況を探索、薩藩有志上坂に対応すべく、川崎孫四郎・山崎猟蔵そして内藤文七郎の三名が送りこまれていたのである。

第二段階の決行連絡者となっていたのが、薩藩士で襲撃に唯一人参加した有村治左衛門の兄有村雄介、金子孫二郎(佐藤鉄三郎を同伴)と共に事件直後に西上、しかし江戸薩藩邸は雄介脱藩を知るや直ちに追手を差しむけ、三月九日夜四日市で雄介・孫二郎等を捕縛、一一日伏見薩藩邸に移送、三月一五日には金子・佐藤両名を幕府伏見奉行所に引き渡し、他方雄介を幕府の召喚命令に先立ち直ちに国元に連行、雄介は到着するや即夜自刃を命じられ、三月二三日に絶命する。水戸藩有志への約束不履行は薩藩「誠忠組」の人々にとっては極めて重苦しい精神的負担になりつづけ、寺田屋事件の要因をつくり出すのである。

三月一四日、京都工作中の文七郎は薩藩京都藩邸から金子・有村等の捕縛を知るや直ちに大坂に戻り、高橋父子に潜伏方を求めるも、薩藩有志の上坂に依然として一縷の望みをかけつづける多一郎は容易に決心がつかず、いよいよ去就如何の相談を酒宴に託して在坂同志達と生國魂(いくくにたま)神社近くの一旗亭に聞くのは三月二二日夜のこと、既に幕吏探索網にかかっており、内藤・山崎・大貫・桜・島の面々はこの会合直後(大貫は逃亡、堺にてつかまる)に捕縛、捕吏に追われる高橋多一郎父子は四天王寺役人の家を借り、翌二三日に自刃する。多一郎は四七歳、子の荘左衛門は一九歳であった。なお小室と黒沢はからくも逃亡、その後小室は自殺、黒沢は逃げのびて、その後情報探索活動に従事する。

捕縛された者の内山崎は絶食して四月九日に獄死、内藤・大貫・桜・島の四名は護送され五月二四日江戸に着・投獄、五月二六日付封廻状では内藤の肩書は「水戸殿御足軽、三一歳」とあり、同時期の別史料には「常州安食村郷士」ともなっている。一旗亭会合者の内川崎は捕吏に追跡され二四日に自殺、他方、伏見奉行所に移されていた金子・佐藤の両名は閏三月五日厳重な護衛のもとに伏見を出発、同月二四日江戸に到着、投獄されていたのだった。

(続きは本編をご覧ください)

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