短歌の表現した戦争

――『短歌現代』二〇〇四年特集による

原田敬一

はらだ けいいち | 

日本近現代史


『短歌現代』編集部が、敗戦六〇周年を前にして、歌人によびかけ『昭和の記録 歌集 八月十五日』(『短歌現代』八月号別冊、二〇〇四年八月)を刊行した。呼びかけに応えた歌人は一六五五人で、四四三頁の大特集となった。一人三首から一〇首あるから、平均五首で見積もると八〇〇〇首以上の上梓となる。こういう心の叫びを深く味わってみたい。

『短歌現代』編集部の「編集後記」には、「この企画は長年の懸案でありました。」、「我々歌人が、この経験を詠い遺す意義は大きいと思います。」と大きな決断のもとに企画編集したことを記している。「この歌集が長く語り継がれるものとなることを念じています。」という結びの言葉は同感するところが多い。それにしても八〇〇〇首以上の労作は、読み終わるにも苦労が要り、そのためか、平和教育などでこうした歌集を使った実践例は少ない。これらの歌が、十五年戦争をどのようにうたいあげ、記録しているのか、整理してみるのが小稿の目的である。

寄稿者は、一九四五年時点で、兵士・大人・子どもとさまざまであり、居住地も内地と外地・占領地と広く、まさに大日本帝国の十五年戦争を体験した人々である。戦後生まれと思われる人はごく少なく、ほとんどは戦争体験者である。各首の後に著者名と、歌の後に解説を自ら書いている人については、その情報を含めた。

なお同様の試みは、俳句・短歌・詩にもある。特に短歌では、講談社が一九七九年から一九八〇年に編集・刊行した『昭和萬葉集』全二〇巻別巻一が有名である。このシリーズの編集の特徴は、戦後の詠も含んでいるが、戦時中など、一九二六年から一九七五年にわたる当該年の作品を多く採集していることである。今回取り上げる『短歌現代』では、戦時中の詠の採録はほんの少しで、ほとんどがこの時点で詠まれたものだった。その分、戦後の反映がみられるが、率直な回想として検討していく。

一 戦争に勝つために

十五年戦争期は〈総力戦〉が叫ばれ、すべてのものを戦争へ、という世相となり、標語「欲しがりません 勝つまでは」を大人も子どもも復唱する時代であった。

ススメススメヘイタイススメと教科書は兵の死する  を名誉とせりけり
関口恒四郎

関口さんは一六歳の一九四三年、陸軍飛行学校に入校した。陸軍少年飛行兵に志願したので一年後には陸軍兵長(上等兵の上、伍長の下)に昇進している。「ススメススメヘイタイススメ」という言葉を『小学国語読本』(国語の国定教科書)で習うのは、国民学校制度以前の尋常小学校一年生の教科書で、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まることから俗に「サクラ読本」と呼ばれたもので、一九三三年度から使用された。関口さんはこの年に入学した「サクラ読本」一期生と思われ、それだけ印象が強かったのだろう。満洲事変も始まっており、教室では「サクラ読本」五頁にある兵隊の挿絵と共に、国のために死ぬことは名誉であると教えていたのではないか。

国語読本にサクラ明るく咲きゐたりヘイタイススメ  とひそかに続き
山本かね子

こうした小学校教育によって、子どもたちはどう育っていったのか。歌に聞いてみよう。

大本営発表・神国日本を信じる

教科書や教師を通して、天皇・神風・軍隊・戦争を教えられ、大人以上に政府や大本営、国家というものを信じ切っていた子どもたちだった。

「損害軽微」「戦線整理」と大本営発表をゆめ疑わぬ日々
足立敏彦、一九四一年に小学生

無条件降伏の日も神風の吹くを信じたる少年なりき

神風が吹くと言ふなり先生の言葉信じてひもじさにゐる
駒板芳夫

沖縄が苦戦と知るや「神風が吹くよ」と真面目な先生が言ふ
太田絢子

神国日本に吹く〝神風〟をひた待ちき 十五日、十六日、二十日の夜まで
鷹野春美

ラジオや新聞から発表される戦争の現状を、発表そのままに信じ、疑うことを知らなかった。この特集にも神風についての歌が多く、〈神国日本〉や〈元寇と神風〉などの創作が、教科書によって子どもたちへ浸透していた。一九四五年に明石で空襲にあった鷹野さんは、八月一五日のいわゆる玉音放送を聞いた後も、〈神風〉が吹き、神国日本を助けてくれる、と真剣に信じていた。その子どもたちをいっそう煽った教師というのも実像である。

悠久の大義を説きて動員へわれらを駆りし校長ありき
青田伸夫

青田さんは、朝鮮釜山の中学に通っており、「五尺の命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ」という「学徒動員の歌」を戦後六〇年たっても忘れないでいる、と回想している。植民地でも、毎日が軍需工場で働くか、軍事教練の演習だった。

大人や教師に褒められた子どもたちは、どのように勝利に貢献できるかを真剣に考えていた。体格がいいことは、徴兵検査で甲種合格となる可能性が高く、それを誇りに思えという教師や社会だった。

担任に健康優良児と褒められて特攻志願待ち居し十歳
小野隆

〈健康優良児〉は新語だった。戦場の兵士と産業戦士をつくるための健康維持は戦時下の国家的課題となる。全国の国民学校五・六年生を男女ともに体格測定を実施し、表彰するという制度となったのは一九三〇年。国民の保健を担当する厚生省が、内務省の社会局と衛生局を統合拡大する形で設置されたのは、一九三八年の一月、国家総動員法が帝国議会で可決される二ヶ月前だった。

少年兵への志願こばめば先生は国賊ですと声はりあげる
石川武

袴からもんぺにかわりし先生は少年兵への志願をせまる

少年兵の願書見せしに一言のみ「急がなくても」と母は言いにき

この三首から戦時下の国民学校と教室が見えてくる。戦時下の国民学校では、男子の訓導(師範学校卒業の正教員)が応召で戦場に向かうと、高等女学校出たての女子教員が増えていた。女子師範学校卒業の正式教員である訓導もいたが、彼女らを含めて女性の職場になっていった。臨時教員のほうが、校長や先輩教員の教えに従って、国策に従順だったと思われる。石川さんの女先生は、袴姿から戦時下のモンペに変わったが、陸軍か海軍の少年兵に志願しないかと迫った。それを拒んだ石川さんは、先生から〈国賊です〉と指弾された。家に持ち帰った願書を見た母は、「急がなくても」とやはり志願を喜ばなかった。この母の思いも、教室でうかんだのではないか。石川さんは、結局少年兵志願はせず、一九四五年四月、中学校に進学したが、入学と同時に勤労動員となり、軍需工場まで八キロを毎日歩いて通った。

二男三男は開拓義勇軍にゆけと強いられしが拒み通したり
毛利文平

毛利さんも、国民学校高等科の時満蒙青少年義勇軍への志願を求められたが、断った。そうした一四歳の少年も、一九四四年国鉄大宮工場職工養成所に入り、群馬県総社町(現前橋市)への工場疎開にあたり、終戦を迎える。

少年兵か進学か、この選択は難しかった。ほとんどの子どもたちに選択権はなかった。佐藤さんは国民学校から女学校に進学したので、女子も進学するより勤労動員という考えが教師にあったのだろう。

かかる戦時に進学するは国賊と声あららげし教師のありき
佐藤桃枝

もちろん大人も、戦争は勝つと信じていた。日本国中が〈勝てる戦争〉に邁進していた。

勝を信じみな死にゆくが日本の勝利の道と日記に書きし
江畑耕作、一九四五年八月整備士として茂原海軍航空基地に着任

子どもたちが国家と天皇を信じ、建国や神風などの神話を現実と思いこむには、厳しい小学校・国民学校の体罰があった。

許されぬ教育勅語の言ひちがひ往復ビンタをもらひたる日よ
山口順弘

体罰も当然という戦時下の学校で育った子どもたちは、どのように戦争を生き抜いていこうとしたのか。教室で、あなたたちは大きくなったらどうするのか、と教師に問われた。

男は兵隊に女は看護婦になりますと先生の問にわれらこたえき
山本シカエ

さまざまな教育現場、学校で、戦争協力が求められる中で、戦時下の詠として次のような歌が、結社誌『アララギ』一九四〇年三月号に掲載されていた(『昭和萬葉集』巻五、講談社、一九七九年)。中本は一九一四年生まれなので、二六歳。姉の立場での思いだったか。

女学生に慰問文強ふるは感情の冒瀆なりと思ひ切つて言ふ
中本幸子

慰問文は、兵士の慰めであったが、それを越えて個人間の通信と拡大解釈する兵士は、日露戦争以来絶えることはなかった。故郷とのわずかなつながり、それが慰問袋・慰問状の期待された役割であり、教室でも積極的に作成が勧められ、作られた。

慰問文届きし人よりきっと帰る逢いたしとありしが今如何に生く
有坂たきの

(続きは本編をご覧ください)

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