「私の戦後」再考

――書評・感想との「通信対話」

望田幸男

もちだ ゆきお | 

ドイツ近現代史


はじめに

昨年末、『季論21』の発売元『本の泉社』から、拙著『ドイツ史学徒が歩んだ戦後と史学史的追想』なる小著を出版した。

「戦後論」にはさまざまなアプローチの仕方があり、拙著も多様のなかの一つに過ぎない。それに「読む方」も、自分の体験と関心に引き付けて読む。こうして書き手と読み手が、それぞれ複数掛け合わされると、そこには多種多様な結果が並び立つことになろう。拙著に関する書評や感想を拝受したが、そこでも同様の感を抱いた次第である。ここでは、それらを拝読しながら、拙著に関連してあれこれを再考させられた一端を記してみた。昨今は気軽に対話や議論の機会をもつことがやりにくくなってきた。そうした事態にいささかでも風穴を開けることを願って、いわば「コロナ時代」の「通信対話」の一つのスタイルのつもりで、本稿をつづってみた。

ところで本論に先立って、一言しておきたいことがある。それというのは、「私の戦後」再考と題したからには、「私の戦前」というタームが対語として浮かんでくるが、私は敗戦時に14歳であったので、「戦前」というのは、幼少年期にあたる。従って思想的社会的な体験という意味での「戦前」は、私にとっては関連性は希薄である。端的にいえば、「体験記」としては「戦後75年」が、青春をスタート地点とする私の人生の根幹そのものである。その意味では、拙著のタイトルも「私の生きて来た道」のほうがしっくりしたかもしれない。

 

一、消えやらぬ「青春の蹉跌」

拙著への感想として、はがきによる短い文章ではあったが、まず衝撃的であったのは、ほぼ同年配で、私と同じように1950年代に社会的政治的活動において「青春の蹉跌」を経験した人々のものである。

そのなかの一文に冒頭、こう書かれている。

「大兄のおっしゃる青春の蹉跌に共感を覚えつつ、読み直し、読みなおしして、文字裏を読み解きながら、完読させて頂こうと思っております」

別の機会にいただいた彼のもう一つの書簡から推察すると、彼は再出発への試みを幾度か繰り返しつつ、作家としての道を切り開いてきたことが推察される。いまは居住地の文化的社会的活動に、その筆力を存分に発揮し、地域市民新聞を編集・発刊している。A4版4ページ、カラー隔月刊で1000~2000部のものだ。また自分の家で20名弱の『名画を語る会』もやっているという。

ここに至る道程での精神的心理的苦闘は察するに余りある。「これぞ、わが生きる道」を、青春の蹉跌からはいあがって発見する苦闘の過程は、消えやらぬ「悔恨の情」との二重奏であったであろう。彼からの一文を、私は折にふれては取り出し味読している。

もう一通は、これもほぼ同年配の女性からのものである。

ここには、腹立たしいばかりの「愚行」に翻弄された体験が、かなりの長文で綴られていた。もう70年程前の体験であるが、おそらくくりかえし反芻されてきたのだろう、いまもって生々と語られている。年月の積み重ねだけでは癒されぬ「心の傷」なのであろうか。

政治的社会的活動には、この種の問題は、傷跡の大小は別として、避けることはできないであろう。だが、その傷跡が癒されることなく、「歴史の暗部」における苦渋の語りとして、いつまでも続けられているのに接すると、なにか、やりきれない気分に襲われる。

だが、こうした文章でおおわれていた手紙ではあったが、その末尾にこんな一文が付されていたのを読んだときは、なにかしらほっとした気分におそわれた。

「(このたびの著書に)5章以降が加えられたことによって、『青春の蹉跌』がどのように前進的に解決されたのかが、とてもよく実感できます。……本当に生きるお手本を示してくださって、ありがとうございます。」

 

二、後輩・教え子たちの追想と「わかりあえた交流」

佐藤卓己氏の書評によせて

同志社大学には三十数年間勤務し、その間、その他いくつかの大学でも教壇に立ってきたが、自分の講義や言動が学生諸君にどう受け取られ、どう影響してきたかということには、教師稼業をやって来たものとしては恥ずかしながら、あまり気に留めてこなかったことに気づかされた。その最たる事例が、佐藤卓己氏(京都大教育学部教授)の日本経済新聞(2020年2月29日)の書評スタイルの一文である。

彼と私の間には、30歳近い年齢差がある。彼は、せんじつめれば私が「講座派・大塚史学」から脱却し、「比較教育社会史」と呼んだ歴史学の一分野を構築していった道程をじっと見つめ続けていたのだ。その後に、彼自身が「メディア史」という独自な新ジャンルを打ち立てつつ、文学部西洋史出身の彼が京大教育学部の教授への道を切り開いたのだ。

彼が日経紙の一文のなかで、福沢諭吉の「似我の主義」を引き合いにしながら、「我に似よと言わずとも、やってみせるだけで教え子の自主性は動員できる。優れた教師とはそうしたものだ」と記している。当初、彼は私の教育史研究をフォローすることを試みていたようだが、私は、このようにあらためて指摘されると、自分の研究課題に気をとられ、身近な学生たちに気を配れなかったことに、気恥ずかしい想いに駆られるとともに、教師たるものの有り様に思い至らされた。

ともあれ私が文学部にありながら、「比較教育社会史」なる旗印を掲げ、彼が教育学部で「メディア史」なる新分野を創設することになったのは、必然と偶然の綾なす交流の帰結だった。

教師らしいことをしたといえば、私の自覚ではたったひとつだ。彼が院生の時、ドイツに留学するにあたって、ドイツ社会民主党史をやってみたいといったとき、私の進言が影響したことは事実のようである。そのとき私はこういった。

日本におけるドイツ社会民主党史研究は、この党がマルクス主義からはずれ、社会民主主義へと右傾化したことの批判的吟味に集中しているが、私は、そうした問題点にもかかわらず、同党が1912年のドイツ帝国議会選挙で100議席を突破し、議会第一党になったことに注目し、そうした躍進事情の解明こそが今日では重要だ、と説いた。当時のドイツ社会民主党は、たしかに正統派マルクス主義からみれば逸脱とか修正主義とか評することができようが、それでも大会文書などではマルクスの文献からの引用でかざられていた。当時の日本(明治45年!)などでは、社会主義はごく一握りの思想家集団の域を超えてはいなかったのだ。

佐藤君は、この提言をドイツ留学中、この時期の社会民主党の「大衆向け絵入り新聞」を資料に、同党の大衆宣伝の解明に具体化するという独自性を発揮したのだ。つまり理論・理屈のなかに点滅する社会民主党ではなく、国民大衆の目と心に映じていた党の具体的イメージの再構成を企図したのだ。こうした事情が、彼が留学後、東大新聞研究所の助手に採用され、さらには後年、「新たなメディア史」の開拓者となる「最初の一撃」となった。だがその一撃以降は、私たちの間にはこれといった交流もなく、それぞれが「わが道」を走ってきたのである。

日経紙の彼の一文は、こんな教師・学生関係の不可思議さを改めて想起させてくれたのである。こうした語りができるのは、私の人生ではまことに稀有の経験であり、いわば私にとって教師としての人生の「宝」である。だが、それにしてもやはり自分が研究者意識はそれなりに強くても、教壇から語ってきたことが学生たちにどう影響してきたかは、強い関心の対象であったとは、とてもいえたものではなかった、と告白せざるを得ない。

彼の日経紙掲載のエッセイの最後にこんな文章が付されていた。「新しい領域に挑む次世代の背中を押せる大学人でありたい、と切実に思っている」大学の教師たるもの、このような心掛けは座右の銘としたいものである。

(続きは本編をご覧ください)

一覧ページに戻る