明治150年と1945年の敗戦

原田敬一

はらだ けいいち | 

(日本近現代史、本誌編集委員)


昨年から政府は「明治150年」を記念する行事を全国で行うよう指示し、各地はどう対応するか、右往左往しているようである。内閣官房の関連施策推進室のホームページを見ると、ロゴマークや各地の実施計画などが掲載されている。今年3月3日には、歴史関係四者協(歴史学研究会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会・日本史研究会)で合同シンポジウム〈創られた明治、創られる明治―「明治150年」を考える―〉が開催された(参加者約200名)。批判の第一矢は放たれた。歴史の恣意的な利用は許されない。

 


 

明治維新後、新政府が行ったことの一つに「祝日・祭日」の決定がある。朝廷や幕府、大名家などには「五節会」など特定の祭日や行事があった。それとは微妙に異なった村や町の行事もあった。村や町の鎮守の祭礼もあるし、季節の変わり目の正月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の「五節句」にも行事が行われた。江戸に限っても浅草の三社祭や神田の神田祭など、その地域の氏子の行事があり、それを江戸全体で祝うことにはなっていなかった。

国全体の規模で祝うことを求める「国の祝祭日」の決定は、欧米の慣行をモデルにした国民国家づくりの一環として考案されたものだろう。紀元節復活反対運動の中で編集された、日本史研究会編『日本の建国』(青木文庫、1966年)は、現代でも参照されるべき学問的究明がなされている。岩井忠熊「第八章 紀元節の制定」は次のように、紀元節制定の学問的無謀さを究明している。以下要約する。

 

「1月29日」を神武天皇の即位日(日本書紀では「正月…朔」と表記)として「祝日」とし、「例年御祭典」を行うという太政官布告が出されたのは1872年の11月15日だが、その6日前の11月9日には、太陰暦を廃止して太陽暦を採用するという太政官布告が出されているので、西欧国家の太陽暦採用と神武天皇即位日を祝日とするのは同一の作業として行われたと考えられる。言うまでもないが神武天皇即位日とは、「日本」の支配者として現れた日を意味する。まず1873年1月4日、「五節句」の廃止とともに、天皇に関わる両日(神武天皇即位日と明治天皇の天長節)を祝日とするという太政官布告が出された。「紀元節」という新しい名称で呼ばれることになったのは、初の祝典が行われた翌1873年の3月7日、太政官布告が命じたものである。太陰暦と太陽暦の暦法の換算によって変更されたと言われるが、これも無理な話で、推古天皇12年(604年)以前の暦法が何だったのかは全く分からない。平田篤胤や保井春海なども推定したが、矛盾が多々生じ、できていない。紀元節制定当時の文部省天文局も現代の学者も特定できない日を、「明治初年の一役人が適当にこしらえた日」(157頁)として「2月11日」が誕生した。

 

そうした曖昧なもの、捏造ともいえるものを国の「誕生日」として何の考えもなく復活を求めたのが戦後保守勢力であり、保守政権だった。いや考えもなく、というのでは言い足りない。保守勢力は、戦前体制で利益を得てきた人たちの遺物であり、彼らはどのようにして戦前体制を復活させるかを何十年も考え、進めてきた。

近年発表されてきた、明仁皇太子をいざという時のために九州に隠す準備を進めていた源田実大本営参謀たち(将口泰浩『極秘指令 皇統護持作戦 我ら、死よりも重き任務に奉ず』徳間書店、2017年)、敗戦後蒋介石軍と連絡を取り、山西省で日本陸軍復活を目論むため師団の復員をさせず、八路軍との戦闘を命じた将官たち(奥村和一・酒井誠『私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵』岩波ジュニア新書、2006年)、海軍の復活を狙い幹部名簿を作成し、米軍や吉田茂首相とも連携していた海軍将官と海上保安隊幹部たち(NHK報道局自衛隊取材班 『海上自衛隊はこうして生まれた―「Y文書」が明かす創設の秘密』日本放送協会出版部、2003年)、日本国憲法下でありながら朝鮮戦争への掃海隊派遣を命じた吉田首相(城内康伸『昭和二十五年 最後の戦死者』小学館、2013年)などは、敗戦を認めず、戦前体制の復活を狙い続けていた勢力の執拗さを物語っている。現在問題になっている日本会議も、宗教団体・生長の家創始者の谷口雅春が、「神洲日本国」は負けていないと敗戦を認めず、大日本帝国憲法の復活を唱えたのが始まりで、現在の日本会議はそれを妄信した信者たちによって創られ、それに古典的保守主義者が合流したものである。

 


 

1945年の敗戦で新たな国づくりを始めなければならなくなったが、政府は戦前の体制を大きく変えることを好まず、国民も大きくは動かなかった。ポツダム宣言受諾をめぐって「国体護持」が最重要なテーマであるように装われた。軍人勅諭と教育勅語により神格化された天皇を支える赤子、という国民形成が半世紀以上進められた結果、国民も「国体」という用語に弱かった。15年戦争やアジア太平洋戦争で軍部や政府が進めたのは、「国体」が八紘一宇の要となると国民を鼓舞しながら、実際は欧米諸列強の植民地と化していたアジアへ進出し、日本が新しい植民地の支配者になり、欧米諸列強と対等の「大国」になることだった。

1945年のポツダム宣言受諾の可否をめぐる議論の時、「国体護持」を持ち出して敗戦を認めようとしなかった軍部は、実は「国体護持」ではなく、軍部の勢力温存しか考えていなかった。それは警察予備隊から保安隊、さらに自衛隊という流れや、現代の軍備増強策を見れば明らかである。

「敗戦」をどう捉えるのか、戦後日本は「敗戦」を正面から受け止めるのを避け続けてきたのではないか、というのが白井聡『永続敗戦論』(太田出版、2013年)の趣旨だった。私は「敗戦」の捉え方が小さすぎたのが戦後日本の最初の誤りだったと考えている。アメリカの軍事力に負けたのは目の前のことで、「50年戦争」に敗れたと捉えねばならなかった。「50年戦争」と捉えることによって、なぜ日本近代はそれを続けてきたのか、と捉えなおされ、そのことは「大日本帝国」や「日本近代」の見直しから再出発しなければならないことに気づく。

3・11は戦後日本だけでなく、日本近代全体を揺るがせた。政治学者三谷太一郎氏が『日本近代とは何であったか』(岩波新書)、物理学者山本義隆氏が『近代日本一五〇年―科学技術総力戦体制の破綻』(同)を相次いでまとめたのも、その意識が作用したと思われる。日清戦争の「勝利」(藤村道生氏は軍事的勝利、外交的敗北、民衆的敗北と結論づけた)により植民地台湾を領有し、朝鮮国への支配力を強めた日本は、大陸での利権の維持と拡大を国策として採用した。それが「50年戦争」を続ける根拠であり、そのことが歴史的に無理であり、無駄だったことが明らかになったのが1945年の敗戦だったのではないか。

保守政権の喧伝する「明治150年」は、私たちが歴史を振り返り、考えることで抵抗できる。

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