「平成」の天皇とは何であったのか(3)

――冷戦後30年の日本政治と天皇

渡辺 治

わたなべ・ おさむ | 

政治学


二 「平成流」の確立と憲法からの離陸(承前)

3 天皇明仁の「象徴」「憲法」「戦争・平和」観の構造

(1)明仁の「象徴」観―伝統と憲法の二本だて

明仁が「真摯」に憲法の求める天皇像から離反していった理由を探るには、まず、明仁の考える「象徴」とはいかなるものかから検討する必要がある。明仁本人は、退位を示唆した2016年8月8日の「お言葉」においても、「即位以来私は国事行為を行うと共に日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごして来ました」(*1)と断言しているように、「象徴」としてのあり方を追求し続けたからである。

明仁の考える「象徴」像のもっとも大きな特徴は、それが一方では日本国憲法の第1条に規定されたものであるということと、それが古来続く天皇制の伝統的あり方にほかならないということとが二本立てで併存している点にある。

すでに明仁皇太子の時代から、こうした二本立ての象徴観は確立していた。1980年、明仁50歳の誕生日会見で明仁は、こう述べていた。「憲法で天皇は象徴と決められたあり方は、日本の歴史に照らしても非常にふさわしい行き方と感じています。やはり昔の天皇も国民の悲しみをともに味わうようにすごされてきたわけです。象徴のあり方はそういうものではないかと感じています」(*2)。この考え方は、天皇に就任して以降、一層強く主張されるようになった。たとえば、95年には皇室のあり方を問われてこう答えている。「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという日本国憲法の規定と長い皇室の歴史を念頭に置き国民の期待に応えて国と国民のために尽くすことが皇室に与えられた務めであると思います。」(*3)と。

では、この二つは、明仁の中でどうつながっているのであろうか。結論を言うと、次のような連関でとらえられていたと思われる。〝「象徴」という規定は、日本国憲法により位置づけられた天皇のあり方だ、しかし、では「象徴」とはいかなる内容であり、どんな行動がふさわしいかは、いくら憲法を探ってみても出てこない。「象徴」の具体的中身は、実は、連綿と続いてきた天皇制のあり方にほかならない。日本の天皇制は実はまさしく象徴としてのあり方を追求し続けてきたのであり、その意味では、「象徴」天皇は、決して戦後憲法で始めて登場したわけではない〟、と。「象徴というものは決して戦後にできたものではなくて、(天皇は)非常に古い時代から象徴的存在だったといっていい」(傍点引用者 *4)というのである。

言い換えれば、明仁にとっての「象徴」とは、形式は憲法によって与えられたが、内容は伝統によって充足される類のものであった。

 

(2)明仁の「憲法」観―憲法からの離陸

憲法の象徴観―狭い「憲法」理解、制約のみ

では一体明仁は、日本国憲法をどう理解していたのであろうか。その点からみていこう。

明仁の憲法観にはいくつかの特徴がある。この把握が伝統的天皇像理解と相俟って、明仁が「憲法」を掲げながら憲法から離れていく理由となったのである。

明仁の憲法観の第1の特徴は、明仁が「憲法」という時、それは主として第1条以下の天皇規定、とりわけ第1条の「象徴」規定に特化していることである。しかも、そこでの「象徴」規定は、もっぱら天皇の行動を消極的に制約するものとしてのみ理解されているのである。

日本国憲法は、明治憲法と全く異なる、民主主義と平和主義、市民的自由保障、平等という積極的価値の実現を求めている。それを踏まえて、「象徴」を理解しようとすれば、「象徴」は、民主主義、平和、自由、平等の体現者として積極的な像が浮かび上がってくるが、明仁が憲法のいう「象徴」として意識するのは、そういうものではない。外国などへの訪問は政府が決めるものであって天皇が主体的に決めるものではないとか、国事行為は内閣の助言と承認にしたがって行わねばならないとか、法律の改正、評価は政治にかかわるので発言してはならない、等々、ひと言でいえば政治に関わらないという自らの行動の限界を画する消極的な基準として意味を持つに過ぎないのである。

もっとも、憲法の定める規制基準に従って、天皇は、「国事行為」以外はしてはならないのか? といえばそうではない、と明仁はこたえる。天皇は日本国の象徴であり、国民統合の象徴でもあるのだから、憲法には書いていないが、国事行為以外でも「国家の象徴として行う行為は」できるのだ(*5)と。明仁は、政府や憲法学者の通説に従って、「象徴としての行為」は可能と考えていたのである。「この行為には、国賓の接遇、毎年ちがう県でおこなわれる春の全国植樹祭、秋の国民体育大会への出席が含まれ」(*6)る、と。

しかし、同時に注目すべきことは、明仁はある時期まで、こうした天皇がおこなう「象徴としての行為」は、あくまで天皇のイニシアティブで決められるべきものではなく、「政府と国民が国家の象徴としてふさわしいと考えたもの」(*7)でなければならないと述べていたことである。この理解を覆して、「象徴としての務め」を自らが望むように決めるようになったこと―これが「平成流」の成立であった。

それはともかく、明仁にとって、憲法の「象徴」とはこうした制約の束であったということになると、憲法の「象徴」天皇とは積極的にはいかなる天皇像になるかは、憲法からは導き出せないということになってしまう。明仁の「象徴」は極めて空疎な、無規定のものとなったのである。具体的な象徴像が、自由とか平等、平和とかからではなく、もっぱら伝統から充足されるものと考えられたのは、こうした消極的「象徴」理解の帰結であった。

明治憲法と日本国憲法の連続性

明仁の憲法理解の第2の特徴は、明治憲法の規定する天皇像と日本国憲法のそれとは連続しているという認識である。もっとも、明仁は、明治憲法と日本国憲法の「違い」に言及していないわけではない(*8)。しかし、その部分も含めて、明仁の中では、明治憲法の天皇像と日本国憲法の天皇像は連続してとらえられているのである。

それをよく示しているのが、明仁の昭和天皇評価である。明仁は父の裕仁を評してこう言う。「陛下(昭和天皇――引用者)の中に一貫して流れているのは憲法を守り、平和と国民の幸福を考える姿勢だった」(*9)と。明仁はこう続けている「昭和の前半の20年間はそれが生かされず、多くの人命を失い、日本の歴史のなかでも悲劇的な時期でした。その後は平和を享受しています」(*10)。ここでは少なくとも、昭和天皇が戦前期に「守って」いた憲法と戦後「守った」という憲法には根本的な差異があるという点は意識されていない。

明仁が、明治憲法の天皇制と日本国憲法の天皇制とは連続していると考える根拠には、美濃部達吉の天皇機関説のような明治憲法解釈がある。こうした解釈によれば、明治憲法下の天皇と日本国憲法下のそれとはさほど変わらないと考えられた。だから、戦前の専制体制や戦争は明治憲法の所産ではなく、明治憲法の立憲的解釈を禁止した30年代以降の軍部政治にあるという理解がでてくる。明仁には、明治憲法と日本国憲法の距離はそう遠くないのである。

そのことを、明仁は、美濃部が敗戦直後、明治憲法の下でも、戦後の立憲政治は実現できるとして、明治憲法の改正に反対したことを肯定的に評価することで示唆している。「美濃部博士は戦後もたしか、大日本帝国憲法のままでもやっていけると述べているわけですね」(*11)と。

ここでは、日本国憲法の画期的性格はほとんど理解されていない。

実は、こうした〝明治憲法体制が悪いのでなく、30年代以降、軍部支配の下で憲法のゆがんだ解釈がまかり通ったことにこそ問題があった〟という理解は、決して明仁固有のものではなく、戦後の多くの政治家や論者がとる見解であるが、明仁はこうした理解の上に立って、〝明治憲法も日本国憲法と同様、天皇が政治に直接関わらない仕組みをもっており、昭和天皇もそうした憲法を守ろうとしていた、悪いのは、軍部が天皇に名目上巨大な権限を付与していた明治憲法を悪用して日本を戦争に引っぱっていったことだ〟としたのである。

日本国憲法で天皇が「象徴」になった意味、語らず

そこから明仁憲法観の第3の、そして最大の特徴が出てくる。それは、明仁にあっては、明治憲法が否定されて日本国憲法が制定された意味、天皇制に限ってみても、明治憲法の天皇制が日本国憲法の「象徴」に変わらざるをえなかった意味がほとんど全く意識されていないことである。

また、このような憲法観の延長上に、戦前の明治憲法下の天皇もまた戦後日本国憲法下の象徴天皇も均しく「立憲君主」であるという理解が生まれてくる。

実際には、明治憲法下の天皇制は立憲君主とはほど遠い専制君主制であったし、逆に日本国憲法下の天皇は、立憲君主が持つ外見的統治権限すら与えられない「象徴」――だから、象徴天皇は君主ではないという解釈が有力となったのである――にとどめられたのだが、明仁には、そうした理解はまったくない。

 

(3)伝統への回帰

こうした憲法理解に立って、憲法の「象徴」の積極的内容は伝統的天皇制の諸行為で充足するということになれば、明仁が「象徴」としての職務は何かという点の研鑽に励めば励むほど、憲法の象徴像を離れて、伝統的天皇の行動への回帰に向かうのは当然であった。その結果、明仁がたどり着いたのは、〝「象徴」は連綿と続いてきた日本の天皇制の伝統的あり方であり、「象徴」としてのあり方は伝統にこそ求められる〟という考えであった。

「象徴=天皇制の本質」論の系譜

ところで、〝憲法で定められた「象徴」制度は日本国憲法で初めて考案されたものではなく実は日本の天皇制が伝統的にとってきた天皇制のすがたにほかならない〟という議論は、敗戦により危機に直面した天皇制の延命を模索するねらいをもって、すでに敗戦直後から台頭していた。

敗戦直後、津田左右吉は、創刊したての『世界』に掲載された論考「建国の事情と万世一系の思想」(*12)で、こうした天皇制=象徴論とでも言うべき議論の原型を展開した。その輪郭は以下のような構成を持っていた。

上代以来一貫して「天皇は自ら政治の局に当たられなかった」「いわゆる親政のおこなわれたのは極めてまれな例外とすべき」時代に過ぎなかった。しかし時々の権力者は常に皇室に服属し「皇室の精神的権威」を尊重したことが皇室の永続した原因である。明治維新と明治憲法で規定された、統治の大権と国民に君臨する天皇像は、こうした皇室の伝統を覆すものであり、軍部はそれを利用して、天皇の名において戦争を引き起こし、日本を存亡の危機に追い込んだ、というものである。後でふり返るように、天皇明仁の天皇論は、最後の明治憲法下の天皇制=例外論を除くとほぼ津田の立論の受け売りであった。同じ頃、やはり『世界』の論文(*13)で、美濃部達吉は、こうした象徴天皇―天皇制の本質論の、いわば憲法版を提唱した。

この種の議論をやや体系化したのが、法制史の石井良介(*14)であった。石井は、天皇が大化の改新期、明治憲法下を除いて不親政であったという点と、天皇が一貫して武ではなく文を重んじたという伝統をあげた。また、歴史家の和歌森太郎(*15)もこうした不親政の伝統から天皇の歴史を概観した。これらの議論で、象徴=天皇制の本質論は、一応の体裁を整えたのである。

また、こうした象徴天皇=天皇制の本質論に近似した見地から、天皇は政治にかかわるべきでないと主張した福沢諭吉の皇室論(*16)が改めて見直され、持ち上げられた。明仁の教育に携わった小泉信三が福沢の天皇論を明仁とともに音読した(*17)ことはよく知られている。

こうした皇室内の教育により、明仁は、象徴=伝統的天皇制論を身につけたのである。                         (以下は本文をお読みください)

一覧ページに戻る