【対談】 東電3.11原発事故が問うもの

小出裕章氏(原子力工学)・矢ヶ崎克馬氏(内部被曝)

こいで・ひろあき  やがさき・かつま | (小出裕章氏・原子力工学/矢ヶ崎克馬氏・内部被曝)

小出裕章氏(原子力工学)・矢ヶ崎克馬氏(内部被曝)


五月以来の菅直人総理を標的とした、「ヤメロ」コールは、異様かつ分かりにくく、同時に、分かりやすい政変劇でもあった。キーワードは「原子力発電」だ。菅氏は、政・財・官・学が六十年近くにわたって築き上げた「原子力村」の地雷原に無防備に踏み込んだ。そして、「原発利益共同体」側からの地鳴りのような反撃をくらったのだ。いまや、日本のエネルギー政策、原発の根本的見直し問題は、巨大な「綱引き」の観を呈している。

われわれは、日本は原発から撤退すべきであると考える。原子力=核エネルギーは、いまだ人類が制御できていないからだ。人類の生存、命、発展がかかっている。そのことを空前の原発事故は日々、衝撃的に明るみに出しつつある。

二〇一一年三月一一日の東京電力福島第一原子力発電所の事故は、私たちに何を問いかけているのか。放射線計測・原子力安全の小出裕章氏と内部被曝問題を追究する矢ヶ崎克馬氏に語り合ってもらった。

(田代真人・本誌編集委員 5・26 於:大阪)

 

マスクもカッパもなく無防備状態だった住民

矢ヶ崎 今回の福島原発の事故で三月の末に福島に行ってまいりました。

その際、私、放射線測定等は、まったく素人なんですけれども、琉球大学から測定器二つを持って、福島の南から北まで、東から西まであちこち飛んで、測定してきました。全域汚染されていたのですが、市民と懇談してびっくり仰天したのは、放射線がどれだけ届いているかを計る放射線測定器がまるっきり市民の手にない。

もう一つ、小学校の原発事故の際の避難マニュアルというのがあったので、それを見せてもらったんですけれども、地震の避難とまったく同じ。放射性の埃がいっぱい飛んできて被曝する、そういう原子炉特有の危険に対するプロテクトが何もない。子どもたちをただ集めるだけで、マスクもない。帽子もないカッパもない、放射能の埃が身につくことや吸い込むことを避けるとか、そういうこと自体がまるっきり念頭にない、しかもバッジ(*)なんか一つもない。

*バッジ=放射線従事者が外部被ばく線量を測定するために胸などに着けて使う「フィルムバッジ」。国内で約四十四万人が使用。 一定期間ごとに線量測定機関に送ると約二週間で結果が分かる。

あれだけ原子炉の集中している福島県で、何をやっていたのだろうか、一番びっくりしました。安全神話の住民版というようなところです。そういう風土と住民無視がこれだけ徹底しているというのは、主権在民を無視するきわめて重大な中身を見せられた気がします。政府が、住民が被曝するということを何もプロテクトしていなかった。全く手を打っていない。住民の命をまったく念頭に置かないで二〇ミリシーベルトに限度値を上げるというようなことをやっている。

現実にどう回避するかということについて、飯舘のあたりのところを計画的に避難地域というようなことで、ま、自主性にまかせながら、政府がちょっとコントロールできるかと非常に曖昧だ。避難ということはもちろん、いわゆる被曝弱者に対して、幼児、妊産婦、病人、そういった方に対して特別の手当をしていない。

例えば甲状腺だったらヨウ素剤を与えるとか水をきちんと保証するとか高性能のマスクを保証するとか、そういう被曝回避に対することが全くやられていない。これが気がかりなことです。

 

隠されてきた内部被曝が福島にはねかえる

被爆について言いますと、原爆症認定訴訟が起こりましたが、被爆した人たちがずっと、「あなたは放射線に当たっておりません」と言われて被爆者扱いされてこなかった歴史があります。まさに今、福島で再現されつつあるような気がします。

そもそも原爆が落とされた後に、アメリカが核戦略を立てました。〝原爆は破壊力が大きいが放射線で長期にわたって人々を苦しめることはない〟という虚像をつくろうとしました。結局そのために内部被曝を隠しました。

もう一つ内部被曝は、原子力発電を推進するために隠すことが必要とされました。原子力発電はアメリカの核戦略で明確に位置づけられて推進されるようになりましたが、原子燃料、ウラン235の濃縮工場を日常的に、経常的運転をさせる。その目的のために原子力発電に燃料を供給しながら、核戦略にいつでもどんな対応もできるようにしていったというのが歴史的なアメリカの核戦略上の出発点となった。これも、垂れ流されている放射能性物質でどれだけ人が被害を受けるかに関しては、内部被曝を隠すということが、実際上市民的コンセンサスを得るために必須であり、平和利用などというものの危険を隠すことにとって非常に大事な要素になったわけです。隠されたものが結局歴史的にどんな変遷をたどっていくかと言うと、被爆者認定の国家の基準ですね。一九五七年に原爆医療法ができまして、そこで被爆者の定義がなされたわけです。この定義そのものは内部被曝がまるっきり欠落させられたところで法制化されて、それがずっと基本的にはいまも引き継がれているのです。

こういうなかで、原爆症認定集団訴訟が起こったわけです。このときに全国で三〇六人の被爆者が訴訟に立ちあがりました。一九回判決がありました。すべての判決が内部被曝を認定しました。「政府の基準は内部被曝を勘定に入れていなくて、それでは不十分だ」ということで、一九回の裁判全部が内部被曝を認めて勝訴したのです。

いま、日本の深刻な状況と言うのは、現存の放射線科学の人たちが、この原爆症認定集団訴訟の結果に対して注意を払っていない。いままで自分たちがねつ造して被爆者を苦しめてきた基準に対して、なんら反省するどころか、まるきり判決自体を無視している。これが今の福島原発の状況にまともに跳ね返ってきています。科学者を名乗る人たちが、判決でなにが行われたか、自分たちが今までやってきたこととどこが違うのか。どうしようか。こういう具体的なプロセス、アクセスを示すと何らかの実体にあった科学的なコンセプトなり、判決を批判するなり、同意するなり、いろんな具体的な現実が見えてくると思うのですが、一切それを無視している。

この無視しているという態度は、ヨーロッパ放射線リスク委員会(ECRR)が戦後どれだけの人が放射線で亡くなったかというような数字を出していることに対しても、無視するという対応を徹底して行っています。ECRRの試算値は六五〇〇万人なのです。ICRP(*)の基準でいうと、内部被曝は一切カウントしていなくて一一七万人。このことに関しても、とにかく無視する。そういうことが彼らの科学手法になっているのです。そういう点で、基本的には原子力行政も含めて、被曝に対する国民的な意識づくりも、改めてきちんとしなければどうしようもない。安全神話の面で、原子炉建設の側面から言うと、こういうことはもう山のようにあって、それでいまのような状況になっていると思うのですが。そういう側面はぜひ小出さんからお聞きしたいですね。

*ICRP=国際放射線防護委員会。専門家の立場から放射線防護に関する勧告を行う国際組織。内部被曝を隠した、アメリカの広島・長崎調査を基にしている。

 

大事故が起きるのは科学の領域では常識

小出 はい。矢ヶ崎さんが福島の現地に行ってくださったということでありがとうございました。そのときに住民は線量計を何も持っていない。そして防護の手段すら何もないまま被曝をしているという、そういう状況を今話してくださって、ほんとに罪深い国だなと私は思いますね、この国というのは。

これまでずっと原子力発電をやってきて、彼らは原子力発電所で周辺住民に被害を与えるような事故は絶対に起こらないと言い続けてきたんです。原子力発電所だけは科学の粋を尽くしてつくってある。どんな事故があったってフェイルセーフだ、フールプルーフだ、事故なんかになりっこない。  巨大な地震が来ようと、巨大な津波がこようと、絶対に原子力発電所だけは安全です。だから、住民に被害が及ぶことはないのですから、住民に放射線測定器を持たせる必要もありません。防災の訓練も要りません。マスクも要らなければカッパも要らない。何も要りませんと、そういう態度をずっと貫いてきたわけですね。

でも原子力発電所って機械です。機械は時には壊れるというのは宿命なわけですし、発電所を動かしているのは人間なわけで、人間は神ではありませんから、ときどき間違いを犯す。そうなれば、誰も願いはしないけれども時には巨大な事故が起きるということは科学という領域から考えれば常識というか、当たり前のことなのです。

それは可能性が少ないと彼らは言いたいのでしょうけれども、可能性が少なくたってゼロではない。いつか起きるかもしれないということは覚悟しておかなければいけなかったわけで、万一起きてしまったときの備えということは、住民の健康を考えるという意味であれば、もちろんやっておかなければいけなかったのです。

万一であってもそんな事故が起こり得るということを、もし彼らが認めてしまうと原子力発電そのもの自体が、どこにもできなくなってしまうということで、日本の国の方は絶対安全だと言い続けてきた。多くの日本の住民たちも国がそう言っているんだから、大丈夫だろうと、東京電力さんが言っているんだから大丈夫だろうと、みんながそう思わせられてきてしまったわけです。

私は、今聞いていただいたように、いつか事故が起きるかもしれないとずっと思い続けてきましたし、事故が起きたときの被害があまりにも悲惨な被害になると、ずっと警告し続けてきた人間ですが、それでもいま、目の前で進行している福島原発事故の現実を見ると、本当なのか、夢でも見ているんじゃないのかと、ときどき思います。

そんなことが起きている。それをとうとう止められないで、ここにきてしまったかと思うと今の自分の気持ちをどういう言葉で言っていいかわからないくらい無念に思います。これから住民の人たちが大変な被曝をさせられていってしまうわけです。それは外部被曝もそうですし、いま矢ヶ崎さんがおっしゃってくださった内部被曝ということもこれからたくさん住民たちが負わされてしまう。

何とかそれを少しでも少なくできないかなと私は思いますが、あまりにぼう大な汚染が起きているので、こうなってしまうと自分でどうしていいかわからない、いまそういう状態に追い込まれているのです。  もちろん、被曝は何としても避けるべきだと思うのですが、被曝を避けようとする一番のいい手段というのはその場から逃げることなのです。しかし、逃げるっていって一体どこへ逃げるんだと。そこでずっと歴史を刻んできた人たちがその土地を捨ててどこかへ逃げるということが本当にできるんだろうか。農民たちが土を大切にして、自分でつくってきた田畑を放棄して、どこか別なところで生き直すことができるのだろうか。海で生きてきた人たちがその海を離れてどうやって生きて行くんだろうかと思うと、本当にどうしていいのかわからない、私は。

 

子どもたちだけは何としても救わねば

でも、子どもというのは細胞分裂のものすごい活発な生きものですので、放射線の感受性も高い。そして彼らにはこんな原子力というものを選択した責任が一切ないわけですから、何とか子どもは守らなければいけないと、ずっと思うのですけれども、それも守れるのかどうかわからない。子どもだけどこか家族とひき離して、ということもものすごい苦痛を伴うことだろうと思います。ほんと困ったなと思うんです。

でも、やらなければいけないことはあるだろうと思います。まずは、子どもたちが遊ぶ場所、あるいは生活する場所、例えば集中的に生活する場所、学校の校庭であるとか、幼稚園、保育所の校庭であるとか、そういう所の土はすべて剥がすべきだと私は思います。それは外部被曝を避けるという意味でも内部被曝を避けるという意味でもやるべきことだろうと思います。

そして、あとは食べ物です。日本の政府は食べ物の汚染を測って、ある基準値を決め、基準値以上のものは出荷停止にして出回りませんよ、というんですね。基準値を下回っているものは安全ですと言ってしまうわけですけど、冗談を言うなと私は思うわけです。

被曝に安全量なんてないのであって、いま日本の国では普通の方々は一年間に一ミリシーベルトという値が被曝の上限だと言われて規制を受けているわけです。この一ミリシーベルトにしたって別に安全量ではありません。危険があるけれども、この日本という社会で生きるのであれば、このくらいは我慢をしなさいよと言われているような量なのです。その量はもう既に守れません。福島の事故を受けてしまったら。

国の方は一年間に二〇ミリシーベルトというような途方もない値を言い出しているわけです。それと同じように途方もない汚染のものは出荷停止。それよりもちょっと良ければ安全だというようなことをやろうとしているわけです。

私はまずそれが根本的に間違っていると思いまして、食べ物はどんなに汚染が激しくても出荷停止にしてはいけないと思います。それは福島という所で長い間農業をやってきた人たち、漁業をやってきた人たちの生活というんでしょうか、生きて来た歴史というんでしょうか、それを守っていくためにも彼らがつくるものを捨てるというようなことはやってはいけないと私は思います。

私の提案は、そこでもまた一つあって、汚染の高いものから低いものまできちっと測定をして、子どもに対しては汚染が極力低いものを与えていく。そして汚染の高いものは原子力をここまで許してきてしまった日本の大人たちが責任をとって自分たちで食べるというのが私はいいと思っているのです。

それは放射線の感受性が年齢とともに減っていく。特に五十歳を越えれば劇的に減るわけですので、特にその世代は日本の原子力をここまで許した責任があると思いますので、そういう人たちが積極的に引き受けるべきだと私は思っています。

そうやってこれまで工業に依存して農業、漁業を潰してきた日本という国を農業、漁業を大切にして、そして子どもも大切にして、自分たちがやった悪事に関しては自分たちが責任をとるという、ごく当然の倫理も回復するということを、ぜひこの機会にやりたいと思っています。

ただ残念ながら、事ここに至っても日本の中のかなりの人たちは電気がほしいから原子力を止めたら困る。豊かな生活がしたいから原子力は必要悪だというような人たちがいるようなのです。私から見ると信じがたいようなことなのですが、未だにそういう人たちがいる。そして原子力発電所もまだ動いている。

何とも想像を絶する世界が今、私の目の前にあって、それを越えていくために、どういうことができるだろうかと日々考えますけれども、よくわからない。とにかく目の前にある課題を一つひとつ乗り越えるしかないかなというぐらいのことで毎日を過ごしています。そんな状態です。

 

原子力に「主権在民」はなかった

矢ヶ崎 安全神話という問題ですが、やはり先ほども言いましたが、国民無視、命を無視する。考え方から言えば、主権者を大切にする、命を大切にするというところがものすごく欠落しています。主権在民だなんていう建前は、建前だけあるだけで、なにも国民のためになっていない。そういうことだったんだと思います。例えば、私も極低温センターといってヘリウムや窒素の低温液体を管理することを、琉球大学でやっておりましたが、そこでも安全マニュアルを作っていました。

その安全マニュアルの基本精神は、何かあった時どういう風に対応するかということのマニュアルで、破壊される可能性があるかないかということではなくて、もし稼働している設備が何らかのことで破壊されたら、どういう症状が出るか、それに対してどういう手だてが必要であるか。何でこれが必要であるとか、どんな器具を用意していくか、まるっきり今運転している状態が事故なり何なりで破損する、破局の状態になったとき、どう対処するかというのは、基本的に、周囲の住民の、国民の命を守る、ここのところが絶対不可欠でした。安全神話ではこれがされていない。まるきり破壊されたときの症状に対してどうしたらいいかという、シミュレーションも一言もない。

小出 ええ、そうですね。

矢ヶ崎 それに東電と推進機関の保安院が事故処理に当たった。これが決定的に大事故につながったのではないかと推測しているのですが。具体的なところでの検証をきちっとやらなきゃいけないけれども。このシミュレーションもないところに、利潤第一主義で、海水入れたらどんなふうになるか。「炉が使えなくなる、どうしようか」、そういう戸惑いの時間がかかってしまった。

結局、命に対していいことは一つもない放射能を、人たち、植物、動物にあびせてしまうということになりました。放射能は、遺伝子の切断など生命に対して百害はあるけれども、一利もない。ここのところをきちっと、体制の上でも保持できなかった、というところが大きいと思うんです。私も小出さんほどではなく、間接的にこういう問題は扱ってきましたけれども、やはり、原子力発電反対と言ってきました。こういう事故を念頭に置いて。絶対やめさせると。そこの絶対というところが不十分だったなと思います。小出さんが忸怩たるものを持っておられるのと同じく、私も、「しまった」と、そんな風に思います。

小出 矢ヶ崎さんが正しく言ってくださったけど、放射線は「百害あって一利なし」なんです。そういう毒物を日々生みだす、そういう技術が原子力発電ということだし、単に生みだすという言葉で言えないほどぼう大な放射線物質を生みだすということなんです。

例えば日本は、広島・長崎の原爆というのを受けたわけですが、広島の原爆で燃えたウランは八〇〇グラム、長崎の原爆で燃えたプルトニウムは一一〇〇グラムだったわけですが、ごく標準的な原子力発電所、一〇〇万キロワットといっていますが、それが一年間稼働するためには一トンのウランを燃やすわけです。

広島・長崎の原爆に比べれば毎年、千倍というような核分裂精製物、ウランやプルトニウムを燃やして、それだけの放射性物質を生みだす。生みださなければ動かない、そういう機械だったわけです。それが事故を起こしたときに、一体どういう防災マニュアルをつくれるか、事故マニュアルをつくれるか。

矢ヶ崎さんは今、低温の液体窒素などで消火、事故のことを考えられて責任をもたれたマニュアルをつくられたとおっしゃっていますが、もちろん必要なことで、どこでも事故を考えてマニュアルをつくると思うのですが、こと原子力発電所に関しては、私は防災マニュアルをつくれないと思うんです。

矢ヶ崎 おっしゃる通りで、私は不用意にマニュアルのことを言いましたけれども、住民無視だということを強調したかったわけです。

小出 いや、もちろんそうです。

矢ヶ崎 やっぱり、今回の場合、崩壊熱を冷やし続けて放射能を隔離し続けなければいけない。永久的にやるのか。根本的な意味で、放射能を使っちゃならんということですね。

小出 はい、そうですね、そう思います。実際にマニュアルはつくらなければいけないと思うし、例えば原発事故が起きたときのマニュアルを作る。住民にはみんな、いわゆる外部被曝線量をはかるための、サーベイメーターのようなものを配布しておく。初めに矢ヶ崎さんがおっしゃったように、マスクは常備しておく。雨合羽は常備しておくというようなことは、ほんとはやらなければいけないことなんです。

でも、それをやってしまうと住民自身が原子力発電所というのは危険だということを知ってしまう。だから国としては知らしめないためにも絶対やらない、ということで来たわけで、矢ヶ崎さんが初めからおっしゃっているように主権在民なんて原子力に関してはないんですね。

矢ヶ崎 ないです。

小出 はい。そういうことでここまで来てしまったということだと思います。

 

――ここで、今の炉の状況ですが、1号機がメルトダウン、つい数日前には、2号機、3号機もそうではないかといわれている。こういう状況をどう見たらいいのか。小出さん、いかがでしょうか。

 

事故を小さめに見せようとする東電、国

小出 まず一番初めに聞いていただかなければいけないのは、矢ヶ崎さんも私もそうですけれども、いわゆる科学に携わる人間として一番大切なのはデータなんです。要するに正しいデータが必要なわけです。

ただ、福島の原発で何が起こっているかを知るための正しいデータは何かといったら、例えば原子炉の中にどれだけの水が今ありますよ。温度は何度になっています。圧力は何気圧です。そういう、ほんとの基礎的なデータというのは一番大切なわけですけれど、それがないのです。

ないというのには二種類の意味があって、一つは物理的に得られなかったということがあります。例えば、そういう測定器というのはたいてい電気で動いているわけですけれども、今回の事故は電気が全部なくなっちゃったということで始まっているわけで、測定すらできなかったということが片方にあるわけです。

もう片方には、国も東京電力も、とにかく事故を小さく見せたい。なるべく事故の実態を小さめに評価して国民には大したことないという情報を与えたいという動機が働いた。結局、今日に至るまで、さまざまな情報らしきものが出されてきたけれど、本当に正しい情報が何なのか未だにわからない、そういう状態に私は陥ってしまっています。

例えば、一番大切な原子炉の中に水がどこまであるかということですが、つい二週間ぐらい前までは原子炉の半分までは水がまだありますと言っていたのです。それなら原子炉の下半分水があるところは、まだ形を保っていると私は思っていましたし、水がなくなってしまった上半分が壊れて、まだ形のある下半分の上に崩れ落ちているという、そんなイメージを私は描いて、そういう状態にどうやったら対処できるだろうかということを必死に考えて、とにかく循環式の冷却回路をつくらなければいけないというようなことを皆さんに伝えてきた。そうしたらいきなり今度は、水位計を調整しなおしたら原子炉の中には水は全くありませんでしたと言い出したわけです。水がないなら溶けちゃうに決まっているわけで、もう炉心はすべて溶けるという以外には物理的にはあり得ない。

外からどんどん水を入れても、原子炉の炉心に水がないということは下の方で穴が開いているからです。それ以外にはあり得ないわけで、原子炉圧力容器といっている圧力釜の下の方、底の方で穴が開いて、そこから水が漏れている。炉心は崩れ落ちて、溶け落ちれば原子炉の底の方に落ちていくわけですけれども、底に穴が開いているわけですから、もちろんそれも流れ落ちてしまう。

そして、流れ落ちた先は圧力容器というものを入れている、もう一つ外側の大きな原子炉格納容器の底の部分に落ちていくわけですけれども、格納容器というのは圧力容器に比べればぺらぺらの容器ですので、そこに溶けたウランの燃料が落下していくというようなことになれば、格納容器もまた溶けて穴が空くということは物理的な必然なんです。

そうなると、何も手の打ちようがなくなる。私、メルトスルーという言葉を使うこともありますし、映画でいえば「チャイナシンドローム」(*)なんていうのがありました。それは米国の原発で事故が起きて溶けた炉心の塊がどんどん、どんどん地面を深く融かしながら落ちて行って地球の中心を抜けて反対側の中国に飛び出していくという、そういうブラックジョークで「チャイナシンドローム」と言われたわけですけれども。

*チャイナシンドローム=一九七九年公開の米映画。公開の二週間後に米スリーマイル島原発事故が起こり、大きな評判となった。

もし、東京電力が言っている現在のデータというか説明、「原子炉の中に水が全くありませんでした」ということが本当であれば、今チャイナシンドロームが進行していると思う以外にありません。そうだとすると私は、とにかく循環式の冷却回路をつくりたいと言ってきたわけですけれども、たぶんもうそれはできないと思います。  こうなれば原子炉あるいは格納容器、原子炉建て屋と言っているようなもの全体を覆うような巨大な石館、チェルノブイリ原子力発電所事故の場合にはその石棺というのをつくったんですが、そういうものをつくって、もう冷却は諦めてでも放射能の周辺環境への拡散を防ぐという、そんな手段しかもうとれないのではないかなと思うようになりました。

それが一号機なんです。二号機と三号機はわかりません、まだ。水位計の調整もできない、被曝環境が強過ぎて。そういう状態にあるので、本当にどうなっているのか私にはわかりませんし、東京電力にも多分わかっていないのだろうと思います。

ですから、東京電力は今、二つのシナリオを示していて、一つは一号機と同じようにほとんど溶け落ちていますというシナリオ。もう一つは、ひょっとしたらまだ原子炉の半分まで水があるというシナリオも書いているわけです。

でも私は、どっちが怖いかというと、メルトスルーじゃないんです。まだ原子炉が形を保っていた方が、実は怖いと思っているのです。それはどうしてかというと、圧力容器という巨大な圧力釜の中心部分に炉心というのがあって、そこに今はまだ半分まで水があるということになっていると、さっきから聞いていただいているように、下半分はまだ形がある。上半分が崩れて下半分の上に乗っているという状態だと思うのですが。

これから炉心に水を入れる作業に失敗する、外から入る水が少なくなるとすれば、炉心の水位というか水の量はどんどん減っていくわけですし、別の要因で言うなら圧力容器というもののどこかに穴が空くというようなことになれば、水が抜けていって減ってしまうわけです。

そうすると、一気に炉心の温度が上がって溶けるという現象が起きると私は思います。そのときに、水は減っていってしまって圧力容器の底の方にしかない状態で溶けるという状態が起きるわけですけど、溶けた炉心が水の上に落下するということになって、そのときに水蒸気爆発という爆発が起きる。そうなると原子炉圧力容器は吹き飛ぶと私は思いますし、その外側の格納容器も簡単に壊れると思っています。

そうすると大量の放射能が何の防壁もないまま空中に放出されるというような事態になると思いますので、私はとにかくそれを一番恐れています。その恐れているのが、未だに私の中ではあって、そんなことはもうないよと言えないがために、何とかしなければいけない。原子炉の中に水を入れ続けて炉心を溶かさないようにしなければいけないと、ずっと思ってきてそう言ってもきましたし、今でもそう思います。

東京電力が提供してくるデータがどこまで本当なのか私にはわからないということがありますけれども、まだまだほんとの破局的な危機が去ったわけではないし、一号機のように仮にメルトスルーをしているとすれば、大量に空気中に出てくるということはなくなったとしても、生みだしてしまった放射能自身がなくなるわけではありませんから、それを一体どうやって閉じ込めるのかという仕事がこれから気の遠くなる時間の長さにわたって、私たちあるいは次の世代に、そしてまたその次の世代に、人類がいなくなる頃までの世代にわたってその仕事を引き受けなければならないことになる。ほんとに罪深いものだなと改めて思いました。

矢ヶ崎 私、原子炉の中でどういうことが起こっているかは、具体的には素人なりに連想するだけですが。1号炉はメルトダウンしながら、核分裂が一挙に進むという状態になかったのは、まだ水があったのかな、なんていろんな連想していますが…。とにかく、いかに治めるか、ここのところがまだめどが立っていない。 小出 はい、そうですね。

 

住民の側から正確なデータの要求を

矢ヶ崎 私がこれに伴って特に言いたいのは、住民の被曝をどういう風に軽減していくか。あるいはきちっとプロテクトしていくか。ここのところを、早急に住民のコンセンサスも得ながら政府がやり遂げていくという方向に進まなければいけないと思っているのです。

小出 そうですね。

矢ヶ崎 いま、住民が声をあげて、こうしろと言わないかぎり政府が絶対動かない。こういう情けない状況の中で、例えば小出さんがいわば揶揄をしながら大人は汚染物質を食べろと。

小出 すみません。

矢ヶ崎 いや、私どもがこういう状況をつくってしまったというのは、私もほんとにそういう気分になるような、そういう心境というのはまさに一体なんです。やっぱり、今の野菜なんかについては汚染の基準以上以下にかかわらず、とにかくデータとして汚染が確認されたとなったら政府が買い上げて、外国からでもとにかく新鮮な放射能汚染のない野菜を住民に提供するという、そのくらいの規模のことを要求しないと、食べ物の汚染から免れるということは難しいんじゃないかな、と思います。

小出 うん、うん。おっしゃるとおりですね。

矢ヶ崎 それと今、風評被害といって、例えば福島で野菜をつくった。東京でマーケット開く。そうすると市民の人が「なんとか激励してやりたい」と真剣に思う。汚染された野菜を、そのまんまわっと買うようになる。これ自体、「とりあえず食べても何も健康に異常はない」、「基準以上の汚染されたホウレンソウを一年中食べ続けても何もない」、というものすごい野蛮な宣伝がありますでしょう。そういうところにずっと足を引っ張られていて、先ほど小出さんもおっしゃった、この「基準値までは安全だ」なんて、そういうウソは命を蝕むだけです。まさに原子力発電を運営していくために、厳しすぎればやっていけないから、適当なところで手を打って、あと犠牲者が出るのは我慢してくれ、というような、ICRPの精神そのもの。そういうものだという、きちっとした国民的な認識を勝ち取らないと、流れとして政府の宣伝に流されちゃうことになる。やはりICRPの功罪というものは、すごく大きなものをもっているなと感じます。

小出 はい。矢ヶ崎さんがおっしゃったことはとても大切なことだと思いますね。政府の方は汚染さえ少なければ安全なんだという途方もない嘘を大量に流しているわけです。ですから、原発の事故が起きたって、まあこの程度じゃないかというふうに思わせられてしまう危険というのが今でもあるわけです。

矢ヶ崎さんも田代さんも気がつかれたかもしれないけれど、関西に来てしまうと、何か他人事のような……。そうですよね、今福島で起きていることは。何てこともないように生活してしまっている。おまけに少しぐらいなら安全だ、むしろ健康にいいなんて言い出すとんでもない学者までいるわけで、それに騙されないようにするということは大切なことですし、ICRPなんて国際組織みたいに言うけれど、あれは原子力推進の片棒を担ぐ、そういう機関ですから。そんなものの基準値なんていうのも元々信用してはいけないわけです。そういうことはしっかり私は言いたいと思います。 その点で矢ヶ崎さんと私は完璧に同意します。

けれども、既に汚染は起きてしまった。福島を中心にしてものすごい汚染が起きてしまっている。もちろん、東京だって汚染しているし、大阪だって本当は汚染しているんです。セシウムがちゃんと空気中に飛んでくる、沖縄だって何か測れたというような話を聞きましたけど。

要するに地球上全部、福島から出た放射能によって汚れてしまっている。そのことをまずみんなが知らなければいけないし、これだけの地球規模の汚染を引き起こした時に、どうやって、もちろん内部被曝を防ぐということはものすごい大切なことで、そうしなければいけないんですけれども。

でも、汚れてない食べ物なんて一つもない。どこかで線を引くことも私は出来ないと言っているわけですから、私としてはやはり責任があって放射能の感受性の鈍くなった人間からそれを摂取するしかないと、私は思っているのです。

例えばどんなことがあるかというと、映画を見るときに、十八歳禁止の映画というのがあるじゃないですか。ある年齢を超えないと見ちゃいけないという、そういう映画がありますね。これからは食べ物に関して六十歳禁止の食べ物、五十歳禁止の食べ物とかね(なるほど、笑い)。そういうふうな仕分けの仕方をして、きちっと表示をして汚染の少ないものが、とにかく子どもに回るようにする。そういう手立てが必要なのではないかと私は思います。

もちろん、どんな被曝も危険だということを人びとに知らせなければいけないし、特に内部被曝は避けなければいけないということも矢ヶ崎さんがずっとおっしゃってきてくださっている通り大切なことなので、それも伝えたいと思いますけれども、どうも逃げようのないところに私たちは陥ったということも伝えなければいけないのではないかと思います。

とても難しいですよね。国の方は何でもない、心配ないから食べろよと言うわけですから…。

矢ヶ崎 小出さんの言われるように、食べ物のリアルな汚染度をきちんとデータをとっていく、これが一番大事です。いま実は野菜なんかに関しまして国が、四月初めだったと思いますが、各都道府県に出した指示には野菜汚染度を調べる場合、「水でよく洗え」と。しかも蒸留水で洗っているのが、現場の対応なのです。困ったことには、出荷農家できちっと洗浄して出せるかというと、出せないんです。結局、流通して国民の口に入るのは埃がついたまんまです。そうすると、厚労省自体が食の安全を保証すべきなのに、国民に偽ったデータを届けている、こういうことがすでに行われている。ほんとに正確なデータを、飲み物、野菜、海の物、こういうものにきちんとしたデータを出させる、そういうことがすごく大きいですね。

小出 そうですね。これからは、住民の側からは、やっぱり政府に対して正確なデータをきちっと出せという要求を、もっともっとしなければいけないでしょうね。

 

──お二方とも、専門の違いはありますが、原発の事故に向き合われて、今後の原子力、原子力行政もそうですが、科学者としてこういう事態にこれからどう対応していったらいいのか。また、現実に原発の原子炉を廃炉にすれば、その後の処理に二十年も三十年もかかる。一方では、原子力の学科が大学から消えつつある。それを誰が面倒をみるのか。そういうことも含めてどう考えたらいいでしょうか。

 

いま、原子力なんてやってはいけない

小出 私は、先ほどから聞いていただいているように、原子力発電所というのは途方もない危険を抱えている。それが絶対に事故を起こさないとは言えない。それはもう、私はそう言ってきたし、もちろん国の方も十分承知しているわけです。だから、原子力発電所だけは都会には建てないで過疎地に建てるということをやってきたわけです。

それだけを取り上げても、原子力なんてやってはいけないと思います。自分が、電気がほしくて原子力をやる。そのためにはリスクも受け入れるというなら、まだ私は納得できるのですけど、都会の人たちは、電気はほしいけどもリスクは過疎地へと。それだけで私は原子力はやるべきじゃないと思います。

もう一つは、仮に事故が起きなかったとしても、つくってしまった核分裂精製物、いわゆる放射線核種は消えないのですね。人間が原子炉を動かしはじめたのは一九四二年です。マンハッタン計画という原発製造計画の中で、シカゴ大学の中に小さな原子炉を動かしたのが初めです。

そのときから学者はみんな知っていた。核分裂というようなことをやれば核分裂精製物という途方もない毒物ができる。何とかそれを無毒化しなければいけないということはみんな知っていたわけで、無毒化の研究はそのときから始まっている。

ところが既に六六年、いやもっと、六九年経っていますかね、無毒化が現実的にはできないということになっているわけです。多分これからもできないだろうと私は思います。そうすると、生みだすことはできるけれど無毒化できない、そういうゴミを私たちは日々つくりながら原子力で電気ができるからいいんじゃないかと言っているわけですが、途方もない退廃だと私は思っています。

自分で始末のできないゴミなんか生むようなものはまず止めるべきだ、と私は思います。これからも原子力を止めさせるために私の力を使いたいと思います。そして、何とか原子力、現在五四基日本にあるわけですけれども、それを一刻も早く廃絶したいと思います。

ただ、廃絶したところで既につくってしまった核分裂精製物というのは消えない。一九六六年に日本で原子力発電所が始まってから今日までに生みだした核分裂精製物の量は広島の原爆が生みだした核分裂精製物の量の一二〇万発分に達している。

核分裂精製物と一言でいっても、いろんな放射性物質の集合体で、寿命の長いものも短いものもある。短いものはどんどんなくなっていってくれているわけですが、一番代表的な核分裂精製物であるセシウム一三七というもので換算をする。三十年という半減期間ですが、それで換算していって、初めの頃にできた核分裂精製物はなくなってくれているということを考慮にいれたとしても、今現在まだ八〇万発分ぐらいあるのです。

一億二千万人の日本人で八〇万発分の核分裂精製物に責任を取ろうとすると、一五〇人で広島原爆一発分の核分裂精製物の責任を負わなければならない。どうしていいかもわからないということですね。

 

──先日、毎日新聞がスクープで、日本とアメリカでモンゴルに共同の放射性廃棄物処理場を作ろうという計画がある、と報道していました。

 

小出 とんでもない悪事ですよね。

矢ヶ崎 誰が考えるんですか、そんなこと。

 

原子力問題と科学者の問題

小出 いずれにしても、そういう仕事をこれから十万年とか百万年という期間にわたって、つくってしまった放射性物質を何とかしなければいけないという仕事がつきまとうわけです。ですから、それを担える専門家というのは、私はどうしても必要だと思います。

ただ、私などが夢をもって原子力の世界に足を踏み込んだ頃には全国に七校帝国大学があった。北から北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州。その七つあった帝国大学にはすべて原子力工学科、原子核工学科という学科があって、これから原子力をがんがんやるんだと言っていたわけです。

自慢になるようで申し訳ないけれども、私がそういう世界に入った頃は工学部の中でも原子力工学科とか原子核工学科というと一番成績のいい学生でないと入れなかった。そういう時代だったんです。それがどんどん原子力が斜陽になってくるに従って工学部で最低の学生も原子力とか原子核というと来てくれないということになって、七つの帝国大学から原子力工学科も原子核工学科もすべて消えてしまった。

もう原子力の専門家というのは育たない。それでも既につくってしまった放射能は消えない。一体どうしたらいいのだろうかと私は本当に途方にくれてしまいます。これから自分の人生を生きていく、そういう若い人たちにお前の親の代たちが、とにかく途方もないゴミをつくったんだから、そのゴミの始末をするためにお前この仕事に命を捧げろといったところで、ほんとにそんなことでやってくれる若い人がいるのだろうかと思うと、やはりそれも私は難しいのかなと思ってしまう。

でも、どうしても必要な仕事なんですよね。どうしても必要な仕事なんだということに納得して、そういう世界の学問の場に入ってきてくれる若い人を私は願いたいけれども、そうなってくれるかどうか自信はありません。ほんと困ってしまう。

矢ヶ崎 私は、ちょっとグローバルになりすぎるかもしれませんけれども、人の命を守ることのできる科学はほんとに正直・誠実で具体的でないとだめだと思います。内部被曝を色々と告発していくプロセスでつくづく感じたことがあります。例えば、アメリカの指示に従って広島、長崎の被爆の現場から放射能の埃がなかったとするような、そういうことを、結局はそうそうたる、外からは科学者と呼ばれている者が実行してしまった。専門家で、計算ができてそれで見事に「科学」であるがゆえに、市民的常識を完璧に覆す内容をつくりあげて、戦後、二〇〇三年、私が指摘するまで、そのまま残り続けてきた、そういう経過があります。誠実な具体的な科学だけが主権在民を守れるのです。

科学はやはり専門家であるだけではだめだ。命と具体的事実をきちんと押さえる、そういう見識をもった、それで専門性を身につけるという、そこのところができて初めて主権在民といわれる人の命を支えることができると思います。ここのところが、例えば、台風で床上一メートルの濁流で洗われると、放射能の埃なんかなくなってしまう(笑い)。

それはもう誰でもわかるんです。台風の後、土の中に残留しているほんとにわずかの強度の放射線をチェックして、「始めからこれしかなかったんだよ」ということを、「科学者」ということでやっているわけです。こういう手口が結局日本の国の制度に取り入れられて被爆者の認定基準になって、それでずっと人びとを苦しめてきている。

沖縄で、アメリカ軍基地となっている土地は、実は沖縄戦がやられている最中にぶんどられた。住民を収容所に入れておいて、住民の居住地が空いたところで、アメリカ軍が民間地域にばっと軍事基地を広げてそれでアメリカ軍事基地にしてしまって、サンフランシスコ条約で日本政府が国家としての御墨付きを与えてしまった。住民は戦争ということは経緯の中にあるわけだけれども、泥棒、略奪に遇っているわけです。それが今なお普天間問題なわけで、それはまさに六十八年前に行われた略奪を国家がアメリカと一体となって進めている姿、その姿がオーバーラップしてしまう。

やはり科学する、被曝という科学的なものの見方、事実をどういう風に見るか、そこのところの一番大事なところを、こともあろうに「専門家」がごまかして支配の手助けをした。これが非常に大きく重く私にのしかかってきています。

ちょうど、一九五四年に日本に原発が導入されるときに、日本学術会議が原子力三原則=自主・民主・公開、これを発表しましたけれども、国策民営という枠の中でとうとうひとつも精神として生きることがなかった。やはり、専門家ではなくて、科学をつくる、科学者を育てるんだということを、改めて大きく国民が意識をしないと、新しい日本がなかなか足を踏み出すことが難しい。小出さんがおっしゃった、危険を危険だとして、どういう風に認識して始末していくか。いままでは、産・官・学といわれて、ある程度、言われる通り入っていって動く。それが立派な科学者みたいな顔をしたけれども、こういう姿はもう再現しちゃならないということだと思いますね。

小出 矢ヶ崎さんが、産官学が一緒になってこんなことをやってきたとおっしゃったけれど、原子力なんて典型ですよね。産官学が強固な原子力モラトリアムをつくってここまで住民、国民を騙しながらきたわけです。

矢ヶ崎さんはこれまでもたびたび国会の参考人とかで出ていってくださって、やってくださっているけれども、私は政治が実は大嫌いで、政治の場には行かないというふうにずっと心に決めていたんですが、この福島の事故が起きてから、私にもやはりこの事故を防げなかった責任があると思い、どうしても一言言わなければいけないと思いまして、先週、参議院に行ってきました。

原子力というのはこんなひどいものなんだということを短い時間でしたけれども聞いてもらって、最後に産官学が中心になって進めてきた犯罪、罪ということを発言しました。それを発言するときにガンジーの「七つの社会的罪」(*)という言葉があって、ガンジーの墓碑銘に記載されているそうですが。

*ガンジー「資本主義の七つの社会的罪」=理念なき政治、労働なき富、良心なき快楽、人格なき知識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき崇拝。

政治に関しては「理念なき政治」、本当にそうだなと思いますし、産業に関しては「道徳なき商業」、金さえ儲かればいい。多分、東京電力などはそうだったと思います。学のところでは「人間性なき科学」。私も原子力の学問の世界にいるわけですけれども、周りを見ると人間性のかけらもない人たちが国あるいは産業と結託して、ここまで来たわけですから、ここで何とかそういう構造をひっくり返したいなと願います。

矢ヶ崎 同感ですね。

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