土にかえるはな―― 林京子をおくる

小林八重子

こばやしやえこ | 文芸評論家



 

去る二月十九日、作家の林京子が亡くなった。享年八十六歳。一九四五年八月九日、十四歳で学徒動員先の長崎市の三菱兵器大橋工場で被爆、三十年後その体験を短編小説「祭りの場」(『群像』七五年六月号初出)に書き、第十八回群像新人文学賞と第七十七回芥川賞を受賞、作家として世に出た。徹底して感傷を退け、林京子その人でもある女学生の「私」が見聞きした事実のみを記録的にたどる中にも、随所にこぼれ出てくる抑え難い悲憤が、今日もなお読む者を打つ名作である。これに別の二編を加え、短編集『祭りの場』が同年八月に講談社から刊行された。

二〇〇五年には日本図書センターから全八巻からなる『林京子全集』(以下『全集』)が刊行された。林京子は一九六二年から約七年間「文藝首都」に同人として籍を置いているが、当時の習作も含め、作家生活四十二年の間に書かれた小説、エッセイなど作品のほぼ全容は、右の『全集』で見ることができる。

林京子は、デビュー以来死去するまでの間、自分の被爆体験を他者のそれと重ねて「核対ヒトの問題」ととらえ、被爆とはいかなるものか、被爆者としてどう生きるかを一貫して問いつめた作家であった。右傾化する一方の時流と戦争・被爆体験の風化に抗して、核兵器廃絶、原発廃炉、憲法改悪反対への意志を毅然と作品に示し、また行動した。

一九八二年二月に出された「核戦争の危機を訴える文学者の声明」には五六二名の賛同署名者の一人となっている。 一九七八年の連作短編集『ギヤマン ビードロ』(講談社)は芸術選奨文部大臣新人賞の内示を受けたが、「被爆者としては、国からの栄誉を受けるわけにはいかない」と固辞した。「一人の被爆者でだけいたい」と反戦平和を標榜する団体や組織にも属さず、けれども協力を惜しまなかった。権威権力におもねらず、個人としての自由と独立と友和を大切にする作家であった。

右掲以外の代表的な著作を、私見に拠って挙げてみる。出版社名と初刊年のみ付記する。これらの小説は『全集』一~六巻に収録されている。参考にされたい。

『無きが如き』(講談社、一九八一年)、『やすらかに今はねむり給え』(同前、一九九〇年)、『希望』(同前、二〇〇五年)の三著は、被爆者たちの八月九日前後と戦後の人生を深いまなざしで描く、それぞれに忘れ難い長編及び短編集である。連作短編集『ミッシェルの口紅』(中央公論社、一九八〇年)および長編『上海』(同前、八三年)は、幼少期を過ごした戦時下の上海への単純ならざる愛着から生み出された佳品。短編集『三界の家』(新潮社、八四年)と『谷間』(講談社、八八年)では、夫婦としての父母の歳月や、自らの離婚をも含む来し方と行く末を深く掘り下げ、凝視している。

『長い時聞をかけた人間の経験』(講談社、二〇〇〇年)には、体内に残留した微量な放射能がヒトの細胞を傷つけ緩慢に死に至らしめる「体内被曝」の実相を、米国の研究者による調査書を挙げつつ同級生たちの病歴に重ねて描破した表題作「長い時間……」に加え、地球上初のプルトニウム爆弾の爆発実験場となった米国のトリニティ・サイトを訪れ、爆発の中心点「グランド・ゼロ」の前に立って被爆者としての人生の「終着地」を見据えた「トリニティからトリニティへ」の二作が収められている。

死去の二カ月前には、福島第一原発の事故から二年目に発表されたが未刊のままだった「再びルイへ。」(『群像』二〇一二年四月号、『全集』未収録)に、既刊書の中から選んだ他の二作を合わせた講談社文芸文庫版の『谷間 再びルイへ。』(二〇一六年)が刊行され、これが遺著となった。

林京子の作品は、執筆の内的動機の強さ、そこからおのずと生じてくる伸びやかで巧みな物語構成、鋭い感性と的確で精緻な観察に基づいた事象、人間の彫りの深い造型などが相まって、強く読者をひきつける。戦争や被爆の悲惨をまざまざと描きながらも決して泣き濡れることのない作品群には、世に多い戦争体験記や哀史とは一線を画し次元を異にする文学の香気があふれている。

 

 

逗子市の林京子宅を訪ねたのは、一九九六年三月末の土曜日である。前日、信州を発って横須賀線逗子駅近くの宿に着くまで、ずっと小雨だった。一夜明けて午後の約束の時間が近づく頃に再び降りだし、雨足はだんだん強くなっていった。

林京子とはその二年前にも会っていた。都心で催された有志による文学の勉強会で、刊行直後の長編『青春』(『全集』五)が取り上げられ、私がそのレポーターを務めたのである。一九九四年二月号『民主文学』に、林京子へのインタビュー「八月九日から出発した命を生きて」(『わが文学の原風景』所収。小学館、九四年。『全集』未収録)を載せた友人、新船海三郎氏に推されてだった。当日の参加者は十三、四名だったと記憶する。

私は駅前の店で片掌にのるほどの小さな花かごを買った。折り畳み傘がまったく役に立たず、手土産の紙袋も衣服の裾もずぶ濡れだった。スイートピーとパンジーの黄色の明るさが背を押してくれるように思われた。

薄青い外壁の二階建ての家は急坂の途中にあった。ドアを開けて林京子は、まあ、と声を上げた。遠いところを、この雨降りに、と挨拶もそこそこに濡れたもの一切の始末に手を貸してくれた。

半身を起こし、色白の腕を伸ばして、どうぞと二階を指したとき、玄関のポーチがぱっとはなやいだ。動作の度にかすかにいい香りがした。深紅のカシミヤのニットアンサンブルのカーディガンだけを肩にかけ、口紅の色もそれに舎わせている。胸元に渋い金の鎖が見え隠れして、タイトスカートは淡茶の霜降りという装いである。階段を登るとき、ふくらはぎを覆う丈のスカートの後中央に深いスリットを見た。客を迎えるための優雅で小粋な出立ちを、大人だな、と眺めてから、これは一種の作家の気勢だ、と私は身がまえた。

目が丸くて背の高い、小麦色の肌の若い女性が紅茶の盆を持って入ってきた。エッセイ「一人息子に嫁が来る」(『全集』七)に登場する、作中名「桂」さんの夫人である。「美子」さんですよね、婦人雑誌のグラビアを見ました、お子さんたちもご一緒でしたね、と思わず口に出た。実物のほうがずっと素敵ですって、よかったわね、と姑の林京子が笑って言うと、ありがとうございます、とお嫁さんも笑顔で出ていった。林京子は応接間の入口を振り返り、小声で、外で働くほうがずっと能力を発揮できる人です、家事だけで終らせるのはもったいないですよ、と言った。「桂」さんの一九八五年六月からの米国赴任に際し、「美子」さんは仕事を辞めて従いて行かねばならなかったのだ。この時はしかし、林京子には特例で「母親随行」が許され、一緒に渡米してワシントンD.C.に近いヴァージニア州の借家に三年間同居している。二人のお孫さんもそこで生まれている。

テーブルの向う側で足を組み、指を絡ませた両手でその膝頭を抱えて、作家はこちらを見ていた。時々目が光る。私はいかにも役不足の客人だった。会話は雑談めき、紅茶の残りはだんだん冷めてゆく。

林京子に会う機会は、もう二度とないかも知れない。林さんの作品の中では『無きが如き』が一番好きです、と私は言った。

(この続きは本誌をご覧ください)

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