広津和郎没後50年

松川事件と広津和郎

伊部正之

いべ まさゆき | 福島大学名誉教授、福島大学松川資料室



はじめに

 

今年(2018年)は、作家・広津和郎(1891・12・5~1968・9・21)の50回忌にあたる。周知のように、広津は『松川裁判』などの著者として、眼前に展開する松川裁判の批判的究明を見事に貫徹するとともに、裁判の公正と被告の救援を旨とする松川運動を成功に導いた中心的な人物として、歴史に名を残している。したがって、その没後50年の機会に改めて広津の人物像や業績を再確認することは、極めて意義深いことである。

しかし、時の流れとともに、松川事件、そして広津和郎などについて、ほとんど知らない若い世代がますます多くなっている。そこで本稿では、そうした時代の変化をも考慮に入れて、松川事件と広津和郎を取り巻く諸状況を、少しばかり考察させていただくことにしたい。

因みに、筆者は1942年生まれのため、松川に関連する経験はごく限られたものに過ぎない。そのため、以下に申し述べるような松川事件や広津和郎に関する記述は、全て松川資料収集事業の中で獲得した知識・情報・経験に基づくものである。その意味では、筆者もまた若い世代に属していることになる。

 

1 松川事件と福島大学松川資料室

 

何はともあれ、特に若い世代の読者のために、松川事件について出来るだけ簡潔に紹介することから始めたい。

1949年8月17日未明、国鉄東北本線の金谷川~松川間(福島市の南郊)のカーブ地点で上り普通旅客列車が脱線転覆し、先頭機関車の乗務員3人が殉職した。これが松川事件である。脱線転覆の原因は何者かによる線路破壊である。この事件の容疑者として逮捕・起訴されたのは、国鉄労組福島支部関係10人、東芝松川工場労組関係10人であった。当時の日本は、アメリカによる占領体制下にあって、公務員の大量人員整理、民間企業の首切り・合理化の嵐が吹き荒れ、これと闘う官民労働運動の先頭に国鉄労組・東芝労連が立っていた。

松川裁判第一審での検察側冒頭陳述は、一連の順次共謀とその中心をなす連絡謀議(両方の組織を結び付けるための謀議)に基づいて、国鉄側3人と東芝側2人が現場付近で落ち合って線路破壊を実行したと主張した。松川裁判(49・12~63・9)は14年・5審に及んだが、判決は第一審で全員有罪、第二審で17人有罪(3人無罪→そのまま確定)、上告審(第一次最高裁)で差戻し、仙台高裁差戻審で全員(17人)無罪、再上告審(第二次最高裁)で無罪確定となった。さらに、引き続く国家賠償裁判(64・5~70・8)では、国による違法な捜査・逮捕・起訴・裁判追行が論証されて、国に損害賠償が命じられた。そして、松川裁判の勝利判決の実現にとって、松川運動と総称される大衆的な市民運動の形成と発展が果たした役割は、世界の社会運動史に輝く金字塔となった。

さて、この歴史的な大事件に関連する諸資料の収集・保存と継承の役割を結果として担うことになったのが、福島大学松川資料室(4年間の準備期間を経て1988年に開設)である。施設の名称を「松川事件資料室」としなかったのは、収集資料の範囲を松川事件に狭く限定することなく、周辺・関連資料を含めて出来るだけ幅広いものにするためである。資料収集の目的は、「松川事件の風化を防ぎ、後世に正しく引き継ぐこと」、「地元に相応しく最大限の資料収集に努めること」、「収集・整理・保存・活用=公開を一体的に推進すること」であった。この基本方針はこの資料収集事業の成功と発展にとって極めて重要な意味を持っているが、手前みそに成りかねないのでこれ以上の言及は控えることにしたい。ともあれ、収集資料は保存と活用の両立を目指して手間ヒマを惜しまず丹念に整備され、今や10万点に達している。そして、資料の収集・整備は現在もなお進行中であるが、整備済み資料のタイトルは「松川資料室」名のDB(データベース)に搭載されて、どこからでも検索が可能である。松川資料室の見学者・利用者は実に多様であり、その要望に応えるための活動が日々続けられている。こうして、松川資料室には、松川事件関係資料はもとより、広津和郎に関連する諸資料もかなりの程度で幅広く集積され、閲覧・利用が可能な状態になっている。

 

2 広津和郎の人物像

 

次に、本稿のもう一つの、あるいは中心的な柱である広津和郎の人物像についても、簡単に紹介することにしたい。

広津和郎は、作家・広津柳浪(1861~1928)の次男であり、同じく作家・広津桃子(1918~88)の父である。広津は1913年に早大英文科を卒業したが、すでに在学中から文筆活動を開始し、ロシア文学を中心とした翻訳、諸作家についての文芸評論などを手掛けた。広津の小説は、急激な資本主義化が生み出す新しい時代状況に馴染めない知識人の性格破産者的様相を捉えた「神経病時代」(1918年)がデビュー作であり、それは広津自身の悩める姿を映し出していた。

1917年にロシア革命が起こると、革命家レフ・トロツキーが文芸論集『文学と革命』(23年)の中で、「革命の同伴者」という呼称を用いた。その後、この用語はソビエト連邦体制下のロシアにおいて、社会主義革命を受け入れながらも、プロレタリア(労働者階級)的な世界観に完全には同調出来ない、主として知識階級(インテリゲンチァ)出身の作家を指す言葉として使われてきた。例えばトルストイ、エレンブルグ、マヤコフスキーなどがこの名で呼ばれた。ひるがえって、日本では、プロレタリア文学(革命文学)運動の組織外にありながら、立場・主張の近かった野上弥生子・山本有三・芹沢光治良・広津和郎らが同伴者作家の名で呼ばれた。宮本顕治「同伴者作家」(『思想』31・4)は、主として広津和郎を論じたものであった。

満州事変(1931年)に始まる対外侵略と軍国主義の新たな拡大の中で、広津は「風雨強かるべし」(33・8~34・3)や「青麦」(36・2~9)などの新聞連載小説で、当時の共産党ないし左派の人たちを想起させる人物を登場させている。そして、講演メモ「散文精神について」(36・10)では、「どんな事があってもめげずに、忍耐強く,執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――それが散文精神だと思います」と述べて、時代の悪しき風潮に流されない態度表明を鮮明にした。いわゆる一五年戦争の中で、ある者はその風潮に積極的に同調して舞い上がり、ある者は妥協して戦場従軍作家となって軍部の戦意高揚策に協力し、ある者は転向表明を余儀なくされたが、広津は不本意な筆をとることを拒否し続けた。

さらに、広津は戦後になってから「再び散文精神について」(『光』48・10)を書き、「私は……私の散文精神のあり方に、もう一つ附加えておきたいと思う。それは歴史に対する責任という事である。私は近頃ヒュウマニズムの最も重要な性質として挙げるべきは歴史に対する責任であると思っている」と付言している。歴史に対する責任の自覚は、広津を苦しめ続けてきたニヒリズム(虚無感)からの解放感でもあった。このように、広津が松川事件に行き着く可能性や素地は、厳しい戦時体制に屈服することなく、自らの信念を貫き通してきたことの内に秘められていたといえよう。

なお、広津が1961年1月~67年3月に『群像』に連載した随筆をまとめた『年月のあしおと(正・続)』(講談社、63年8月、67年6月発行)は、日本文学史とは別の日本文壇史の実像を辿るためのすぐれた報告書として、さらには広津文学の代表作として極めて高い評価を得ている。同時に本書は、広津の人物像をより深く広く解き明かすための恰好の自伝的な名著でもある。しかし、松川と広津という本稿の課題に照らして、本書への深入りは禁欲して、とにかく先に進むことにしたい。

(以下は本文をお読みください)

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