トランプ新政権と揺れる社会

【フォーラム】トランプ米新政権と揺れる世界

インタビュー・寺島実郎さん

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本誌編集委員会は5月12日、浅井基文さん(国際政治)、西崎文子さん(アメリカ政治外交史)、三浦一夫さん(ジャーナリスト、司会)をパネリストに、フォーラム「トランプ米新政権と揺れる世界」を開催しました。前半部の発言・討論、および浅井、西崎両氏の問題提起を紹介します。

 

三浦 トランプ政権の誕生は予想外のことでしたが、その後100日ほど経過し、ごく最近のフランス、韓国の大統領選挙はじめ国内外でさまざまなことが起きました。今日は、それらをどう見るか、今後どうなっていくのか、また日本はどうすればよいのか、などにつきまして議論したいと思っています。

はじめに、浅井さんの方からこの間の国際的な動きをどうご覧になっているのか、ご発言をお願いいたします。

 

マス・デモクラシー時代のデモクラシー

 

浅井 私の問題意識は、お配りいただいた資料に載せてありますが、西崎さんの文章を読み、同じ問題意識だなと心強く思っているところです。私は国際関係のなかで、トランプ現象、国内的にはポピュリズム(大衆迎合)と総括されている問題をどう理解しているかということを中心にお話ししたいと思います。

私は丸山眞男かぶれを自認しているのですが(笑い)、デモクラシーの問題について、丸山眞男は戦後の早い時期から、まるで今日を予見するかのようないろいろな視点を提起しています。

たとえば、社会が膨大に複雑化していくとともに、統治機構は必然的に肥大化しますし、ふくれあがる課題に対応するために権力を集中せざるを得ないという要請も必然的に起きてきます。そういうときに、その統治機構・権力が主権者である国民に対していかにアカウンタブル(答責的)であらしめるかという問題が最重要になる。しかし、今日のデモクラシーはマス・デモクラシー(大衆民主主義)であり、マス・デモクラシーの時代に制度としてのデモクラシーが適応しないという問題が起きている、と丸山は指摘しています。どういうことかというと、間接デモクラシー、つまり、主権者・国民が選挙を通じて間接的に統治に参加するという制度は19世紀に確立し、それが今日まで化石のように生き延びているけれども、それはもはやマス・デモクラシーの時代に適合した機能をはたし得ていないのではないか、したがって、マス・デモクラシーをほんとうにデモクラシーたらしめるという本質的な問題が存在している、と丸山は指摘しているわけです。

広く知られているように、ヒトラーのナチス・ドイツは、ワイマール・デモクラシーのもとで合法的に権力を獲得し、その後独裁化しました。すなわち、マス・デモクラシーの時代におけるデモクラシーの制度のあり方という問題は、すでに戦前に客観的に提起されていたのです。けれども、第二次世界大戦は民主主義対全体主義の戦いとして特徴づけられて、その問題は隠されてしまいました。

また戦後は、米ソ冷戦が長きにわたって続き、この問題はやはり本格的に問われるチャンスを逃してしまいました。また、米ソ冷戦終結と前後して、1980年代後半からは新自由主義が世界を席巻し、市場原理が政治の世界にまで入り込み、その結果、個人はますます「個」としての存在を失わされるに至っています。マルクスのいう労働力の商品化どころか、人間存在そのものがアトム化されるに至っているのです。したがって21世紀の今日、マス・デモクラシーを真にデモクラシーたらしめるには、デモクラシーの担い手である私たち一人ひとりが明確な政治意識、市民意識を持ち、それによって、〝私が政治をコントロールする〟という意識を持つことが、これまで以上に痛切に望まれるわけです。

もう一つの問題は、新自由主義というデモクラシーとは縁もゆかりもない原理が世界を席巻していることの意味をどう考えるかということです。新自由主義は、国内的にも国際的にも南北問題を大きくし、民主的なガバナンスの土台を崩しています。つまり、マス・デモクラシーの時代にふさわしい制度としてのデモクラシーのあり方は、国内的にも国際的にも未解決の課題として提起されているということなのです。

「ポピュリズム」として総括される諸現象――トランプ現象やイギリスのEU離脱、イタリアの五つ星運動など――は、マス・デモクラシーの時代にふさわしいデモクラシーのあり方を模索する国内的、国際的な動きとして捉えることが重要ではないでしょうか。しかし私が危惧するのは、西側エスタブリッシュメントを中心として、これらの動きを一括して、デモクラシーに背馳する「大衆迎合」としてのポピュリズムと一括りにして捉える見方が無雑作に広がっていることです。これでは、マス・デモクラシーの時代における制度としてのデモクラシーはいかにあるべきかという、ナチズム以来の問題の本質、したがって解決の方向は再びかき消されることになってしまいます。もっと本質を見ないといけないと思います。

トランプ現象と歴史的視点

西崎 私は歴史をやっている者として、長期的な視点でものを見たいと思っています。いま浅井さんがおっしゃったような、どのような政治現象が起き、デモクラシーはどう対応したのかを考えたいと思っているのですが、昨年初めからトランプが頭角を現すようになって今日まで、朝テレビをつけると何かが起きていて、無視したいと思うがそうもいかず、というような葛藤がつづいています。トランプ政権ができたので、ここらで落ち着いて長期的に考えてみたいと思っていると、一昨日でしたか、FBI長官の解任があり、それに振り回されていました。

考えてみると、それがトランプ政治の強みなのかもしれません。人々が振り回されている間にアジェンダ(政治課題、ただし一貫したものではありませんが)を実現していく、もしかするとその策にメディアも含めて入ってしまっているのではないかという錯覚を起こしそうになります。これまでから、そしていまも、真剣にアメリカを考えている人々、とくに良心的な人たちは、かなり困惑し、疲弊しているのではないかと思われます。

資料として配られています私の文書は、トランプ現象というのは、トランプを超えて世界にもアメリカにもいろんなことが起きており、重要なことはそれに振り回されないできちんと見ていくこと、という点を一つのメッセージにしています。いくつかポイントがありますが、一つは、これは今に始まったことではないということです。

アメリカを長いスパンで見ると、ひずみが現れたのは19世紀から20世紀への転換期です。社会、政治、経済、文化のあらゆる面で鋭角的に現れました。たとえば、急速な産業化のなかで、移民労働者をはじめ脆弱な人々が非情な搾取によって悲惨な生活を強いられる一方、巨大産業が生まれ、資本はトラストやカルテルを結び利益を独占しました。

移民問題もそうです。いま、ムスリム、イスラム教徒の排斥が問題になっていますが、20世紀初頭はそれまでの北欧や西欧でなく南欧、東欧から多くやってきました。ちがった文化が持ち込まれることに対して激しい排除の動きが起きました。南北戦争で黒人奴隷が解放されましたが、そのあと、激しい差別が起きたのもこの時期でした。

そうやって考えてみると、浅井さんが問題提起された、マス・デモクラシーが出てきたときに制度をどう調整していくか、つくっていくかという問題は、評価は分かれますが、アメリカ社会はやってきているといえます。問題のありかを特定して対応策を講じていく、「革新主義」もそうですし、ニューディール政策もある意味ではそういえると思います。1960年代の「偉大な社会」といわれる社会福祉政策の拡充もあれば、公民権運動もありました。そういう、対応してきた過去が歴史のなかに存在することを、まず認識する必要があるのではないでしょうか。

現在は、そういう点での対応がうまくいかないことからトランプが出てきたととらえるほかないように思います。ただ、オバマの時代に生まれたティーパーティーの運動――2012年頃から、連邦政府の介入を排除し、社会福祉は小さく、課税は少なく、自分の責任で自由に生きたいという――が前哨戦としてあったことも見ておかなくてはいけないと思います。また、アメリカの産業政策に不満を持つ人たちが〝Occupy Wall Street(アメリカ経済界、政策に対する抗議運動)〟をやり、いまのシステムに対して根底的な批判を投げかけたことも重要なこととしてありました。

そういうなかで、トランプがあだ花のように大統領に当選したということではないでしょうか。振り回されないのはむずかしいと思いますが、トランプの裏側にあるもの、それに対してアメリカはどのように取り組んだのか、取り組まなかったのか、歴史的な検討が必要だろうと思います。

 

トランプはアメリカを変えるか

 

浅井 革新主義、ニューディール、福祉政策……などの模索がアメリカでは行われていたといわれました。それはそうなんだろうとは思いますが、私が伺いたいのは、そういうアメリカ国内での問題意識が国際的にも共有されたかということです。

また日本では、マス・デモクラシーをデモクラシーたらしめるための運動としては、強いていうなら60年安保闘争、一昨年来の安保法制に反対する運動、シールズなどの動きなどをあげることができるかもしれません。しかし、マグニチュードといいますか、エネルギーの大きさいう点では、アメリカの公民権運動などとは到底同日に論じられません。

三浦 トランプはアメリカを変えることはできるのでしょうか。

西崎 トランプに変える力はありませんね。ティーパーティーやウォールストリートの運動を申しあげたのは、トランプがそれの受け皿になったという意味ではなく、あだ花といいましたが、それらに示された憤懣を乗っ取るような形でトランプが出てきたという意味なのです。

アメリカは多文化主義(multiculturalism)の国です。いろいろな人種、民族とその持っている文化と共生せざるを得ない社会です。ですが、つねにそれをどう維持し育てていくかということと、いやアメリカは白人のキリスト教の国だとするものと、ときに激しく争ってきました。そのことが、より高次の民主主義につながっていったとは確信を持ってはいえないけれども、ただ、それを自分たちのものにしたいという意識が再生産される土壌はあるのではないかと思っています。

そこは日本とちがうように思いますが、しかし本当にちがうのかは少し疑問です。日本はよく、同質だから摩擦がないといわれます。本当にそうかと思うのです。摩擦をあえてつぶすことによって同質社会をつくろうとしているのではないか、そしてそのことが、浅井さんが問題意識に持っておられる、民主主義が育たないことにつながっているのかなと思います。

その点、アメリカはトランプ政権が誕生したあとでも非常にアクティブに反トランプの行動が続いています。トランプだけを見ていると分からないものがそこにはあると思います。

(この続きは本誌をご覧ください)

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