【巻頭言】「道徳」の教科化と安倍政権

鯵坂 真

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哲学、本誌編集委員


2006年に第1次安倍政権は、「道徳の時間」を特別な教科として打ち出した。しかし当時の文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会が、「道徳」の教科化は、「心の中を評価することになる」として、難色を示したため、実施は見送られてきた。2012年に成立した第2次安倍政権で、『道徳』の教科化が再度推進され、遂にこれが実現し、学習指導要領が改定され、小学校では2018年から、中学校では2019年から教科書を使った「道徳」の授業が始まる。そのため全国の公立小学校で使用される教科書の採択がこのたび行われた。そのための教科書の一般展示会なども行われ、さまざまの話題を呼んだ。

このように『道徳』の教科化を執念深く、強引に推し進める安倍政権だが、他方で森友学園、加計学園問題や、防衛省の日報問題などが問われるなかで、記録がないとか、記憶にないとか、明らかに事実を隠蔽、あるいは虚偽答弁が問題になっている現状(正直に答弁しない、明らかな嘘をつくなど、道徳的でない政治を行い、国政の私物化が問題になっている安倍政権の現状)を思い合わせるとき、この政権が日本の子供たちに、「道徳」を教科化して来年から押し付けようとしているなどというのは、まったく腹立たしい限りで、ほとんどブラック・ジョーク、あるいはブラック・ユーモアというしかないと思われる。しかしこれがわが国の政治の現実なのであり、笑いごととする訳にはいかず、どうせ政治家とはそのようなものだと皮肉って、冷笑するというシニカルな態度で済ませる訳にもいかない。

ここまでくると彼らが何故こうまで「道徳教育」にこだわるのかが明らかになってきていると言わざるを得ない。すなわち彼ら安倍政権は「国政の私物化」といわれる政権運営を行いながら、これが国会で問題になるや、とても道徳的とは言い難い答弁を繰り返し、政権維持に汲々としながら、あえて憲法9条の改悪などを進めようとし、その彼らが何故に、全国の子供たちに「道徳」を教科化して、無理やりに押し付けようとしているかが透けて見える。安倍政権が何故に「道徳教育」にこだわるのかという点と、來年から実施される教科「道徳」の内容のどこが問題なのかの両面から問題点を指摘しておきたい。

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第2次安倍政権が道徳教育に力を入れ出したのは、2011年10月、滋賀県大津市で起きた中学2年生が自殺した「いじめ」事件がきっかけであったと言われているが、しかしそれは単なるきっかけに過ぎなかったというべきであろう。自民党政権は戦後間もない時期から道徳教育の教科化を主張してきた。それは戦前の軍国主義的・天皇制的・国家主義的学校教育において、中心に置かれてきた「修身」教育の復活を目指す願望であった。

戦前の「修身」教育とは「教育勅語」を基にした天皇絶対の軍国主義的な道徳教育であった。「勅語」とは天皇のお言葉という意味であり、「教育勅語」とは天皇が国民に対して、身につけるべき道徳(徳目)を指示し、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(一旦、戦争のような国家にとっての緊急なことが起これば、勇気を奮って)、命を捧げよという、まさに天皇主義的、国家主義的道徳を国民に教え込んだものであった。戦前・戦中、日本の学校教育は「教育勅語」に基づいた国家主義の教育であった。

戦時中の小学生であった筆者などは文字通りこの修身教育を受けたもので、入学式・卒業式はもちろん、紀元節・天長節など祝祭日には必ず登校し、校長が読み上げる「教育勅語」を最敬礼して拝聴したものである(現代では、祝祭日は休日であるが、戦前・戦中は休日ではなく、登校して「教育勅語」を拝聴する日であった)。そればかりでなく、4年生からは、修身の時間は「教育勅語」を暗唱させる時間であった。修身の教科書の冒頭には「教育勅語」が掲げられており、これを暗記しなければならなかった。一人ひとり起立して暗唱しなければならず、全員が暗唱できるまで徹底的に教育する。これが4年生の修身の時間であった。

「教育勅語」には、兄弟仲良くせよとか、夫婦仲良くせよとか、いいことも書いてあるという意見もあるが、何といっても「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」という国家主義的天皇主義的な徳目が中心のこの勅語は、戦後の新しい日本国憲法にはふさわしくないとして、衆議院ではその「排除」を、参議院ではその「失効」が決議された。ところが、このような戦前の修身教育への回帰を図ることが、日本の保守勢力、現在では「日本会議」などの右翼勢力の執念であることを見逃すことは出来ない。

「森友学園」で幼稚園児に「教育勅語」を暗唱させていたことは広く知られた事件であったが、「道徳」教科化を執念深く狙ってきた文部科学省の動向なども、一貫して道徳教育の戦前回帰を狙ったものと言わざるを得ない。この事は2014年10月の中央教育審議会答申「道徳に係る教育課程の改善について」、2015年3月の「小・中学校学習指導要領(道徳)一部改正告示」などを検討してみると明らかである。

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ここでは詳細に論じる余裕はないが、第一に、個人が学校や地域・社会、国に如何に貢献し役立つ人間になるかという側面は強調されているが、個人の基本的人権や個人の自由や平等などを如何に保障し、如何に平和を守るかという側面、要するに個人の尊厳や民主主義を理解させる側面はほとんどないという事実に注目せざるを得ない。「自由・平等・友愛」などの近代市民的道徳は排除し、家族や国家などの共同体の道徳を重視する特徴が現れている。

第二に、道徳を知性や理性などを基礎にして理解するのではなく、崇高なものに対する「畏敬の念」とか、「国や郷土を愛する態度」など、情緒・情操・感情などが強調されている点である。人間の行為は知性や理性だけでなく、情緒や感情を伴って行われるのは事実であるが、しかし知性や理性の見地を欠落させたまま情緒的・感情的な側面を一面的に強調することは極めて危険である。

アジア・太平洋戦争に突っ走った20世紀前半の我が国は、歴史や世界情勢を理性的に考察することなく、欧米列強のアジア侵略に対する感情的な反発と単純な愛国心をあおり、その結果がアジア・太平洋戦争の惨禍であったことを深刻に反省することが不可欠である。道徳も情緒や感情と不可分であるが、しかし理性の裏付けが欠落するととんでもないことになるということを忘れることは出来ない。安倍政権と文部科学省の想定する道徳は理性的・科学的な側面を欠落させたまま、郷土愛や愛国心を子供たちの心に植え付けようとしている点が危惧される。

今日の学校教育における道徳教育の必要性は否定できない。しかしそれは偏狭な国家主義的な愛国心を強調するようなものであってはならない。世界の諸国民との共存共栄をはかっていけるような世界市民的・平和主義的道徳、近代市民的な民主主義的道徳でなければならないであろう。

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