世の中の落とし穴から声なき声をあげる

――遠い夜明けのはじまり

華川悠妃

 | 難病患者



一、はじめに

「この世の中は、落とし穴があちこちにあるきれいな野原のようなものです。野原を見渡しているだけだと、美しい花が咲き乱れ、何事もない平和な光景に見えます。でも、何も知らずに歩き出すと、草花に隠れて見えなかった落とし穴に落ちてしまうことがあります」(竹信、2012 *1)

本稿は教育に恵まれて自立した人間が、日本社会での落とし穴に陥って苦しみもがきながら生きのびようとする過程をとりあげたシングル・ケース・スタディである。自験例を公にすることにした理由は、落とし穴に転げ落ちてみたら、そこが人々の視界に入っていないことを実感したからだ。そして、いくつもの大きな落とし穴が2018年の日本にも未だに悲惨な境遇を生みだしている。

本事例の〝難病〟という落とし穴一つをとってみても自殺率が一般の7倍(*2)に及ぶことが明らかになっている。自殺は、苦しみの中にあって希望が感じられないときに苦境を訴える方法であり、苦境を免れるためにやむなく為される。かたや必死に生きのびていながら弱って声をあげられないでいる人たちが落とし穴の底に潜んで、尊厳の危うい暮らしの瀬戸際にいることに気づいた。

筆者は当事者体験を通して、これまで解決されてこなかったのは解決がむずかしかったからではない、と察するに至った。落とし穴に気づいたリーダーが、問題を理解して立ち上がれば十分に解決可能な問題ばかりだ。おそらくは落とし穴を看過し、看過させてきたために解決が遅れているのだと思う。なぜなら放置されてきた課題は共通して、極端にマイノリティであるか、声をあげられない状態でありながら代わって声をあげる家族や団体がない対象ばかりが残されているからだ。被虐待児、頼れる実家のないひとり親、指定難病にされない難病、知的・精神障害の方々などが看過され、偏見や差別と困窮に追い込まれ続けている。こうした中で声なき声を伝えようとする貴重な仕事をしてきたのは、志ある一部の研究者やジャーナリストだった。現代日本に差別と迫害、そして貧困がうごめいている。

差別解消やコトの解決を導いてきたのは、歴史的にも当事者が声をあげることだ。とはいえ、ひとたび無理をすれば絶唱となるかもしれない体力で声をあげるのは至難の技である。

遠い夜明けのはじまりとなることを願い、認知障害を伴う全身性障害にみまわれる中で筆者も何とか声をあげようとしては心身共に挫け、何度となく中断してきた。それでも取り組むのは、過ぎたあとには忘れてしまうから。そしてまだ声をあげられないでいる多くの人がいるから。いつしか周りの方々がそれぞれの形で絶えず真剣に、温かく支えてくださったお蔭で本稿は完成した。闇に葬ったつもりの状況に置かれてもなお生きていれば思考し、人のために祈ることも愛することもできる。

未来ある子どもたちのためにも落とし穴はつぶしておきたいし、落とし穴に陥っても私たちは絶望せずに生きられる仕組みが実現することを願ってやまない。

 

二、事例A

200X年、30 代女性。大学院卒、都内在住。

足が前に出ない。それまで時速6キロ以上の早足で階段は二段飛ばしだったのに、いつもの道のりで、この頃いつものように歩くことさえできない。自宅の下にある坂のふもとで「もう無理だ」と絶望して、そばのガードレールに体をもたせかけてやっとしゃがみこんだ。しゃがみこんだら呼吸するのがやっとで、じっとしたまま動けない。桃の節句の頃に突然発熱し、平熱に戻らないまま数ヶ月が経とうとしていた。クラシックバレエをしていたせいか筋肉質で体幹がしっかりしていて「姿勢がよいですね」と褒められることが多く、休日はサッカー場を走りまわっていたのに、発熱してからは思うように走れなくなった。運動しているのに自分の背中に手を触れると、げっそりと背筋が落ちていてギョッとするほど変化は不気味にやってきた。なぜか指先が震えるようになり、打撲した覚えはないのに両脚に続々と紫斑が現れていた。

発熱は、職場での上司の暴言が引き金だった。年度末を迎えてなお、代休の振替休日をとれなかったので、上司が隣席で機嫌よく同僚と歓談しているときに水を向けると、Aに対しては手の平を返したように「(代休を)捨てれば!」と吐き捨てるように言った。ついに体が堪忍袋の緒を切ったようだった。急に熱っぽさを感じたのでインフルエンザを疑ったが呼吸器症状はなく、以後十年間ずっと平熱に戻ることがなかった。そしてこの日の発熱をきっかけに、病態はどんどん進行していった。

職場では、業績をあげる高学歴の女性職員を標的とした執拗ないやがらせがあり、優秀だった同年代の前任者は自律神経や内分泌系に変調をきたし、うつ病のような不調に苦しんだ末に退職を余儀なくされていた。するとAが集中的に標的となって、それから先の発熱が始まった。その前兆に高眼圧があり、つぎに右の肋骨の下に疼痛が現れて、休みの日や帰宅後には数時間にわたって一人で痛みをこらえてうずくまったまま脂汗を流しているしかなかった。疑われた胆のうには異常がなかった。つづいて肩関節にキリを差しこんでグリグリとされるような疼痛も現れてきた。職場では標的が虎視眈々と監視され、貶めるために網の目のように張り巡らされた仕掛けがあって、その中で自分に受けるダメージを少なくするために気を休める暇はなかった。それでもAは仕事で認められることに根拠のない希望を抱いて業務を改善し、よりよく達成しようと抵抗しつづけていた。

入職前に米国で知り合った元夫とは二人の子どもをもうけていたが、元夫は帰国してから次第に義実家の文化に引き戻されていった。伝統芸能の家元で三十畳の大広間を備える音楽事務所を兼ねた婚家は、米国での個人主義やレディファーストの文化とは対照をなす東北の旧家のようだった。元夫が長男でもあり職業がら関わることも多く、家族の価値観が変わっていったのは避けようのない流れだった。

Aが入職のさい、採用責任者の一存で一方的に通称使用が禁止された。まさかと思われるかもしれないが実際に2000年代の東京都心部であった出来事である。職場と苗字が同時に変わってしまえばインターネットの時代に、検索でAが職業人として同一人物として同定できなくなってしまう。やむなく元連れ合いの同意を得てペーパー離婚したのだが、古風になっていた元夫はしばらくして「名前を変えられてショックだった」と言い残して家を出て行き、まもなく別の女性と再婚した。

出奔時に残された子どもたちは3歳と5歳で、その一年半後、Aの父は出勤しようとして自宅の玄関で車のキーを握ったまま倒れ、そのまま亡くなった。日本の猛烈サラリーマンだった父と交わした言葉は原稿用紙一枚を埋めることもできないほど少なかったが、Aがひとり親になってからの唯一の支えだった。母は顔立ちのきれいな人だったがAに対しては幼い頃から白雪姫の継母のように振る舞い、婚約時には婚家の両親に挨拶するどころか「返品無用」と言い放ってしまう挙動不審なところがあった。口数の少なかった父が急逝すると、Aは羽を休められる止まり木を失くした。保育園の保護者仲間がときどき親子三人を預かるようにして休ませてくれたのが身に沁みて有難かった。しかし頼れる実家のないひとり親は、一家の大黒柱である。職場環境がみるみる悪化していても、簡単に仕事をやめるわけにはいかなかった。

父の生前からAの職場での異常な環境が始まっていたが、入職時の保証人だった父が亡くなると弾みがつけられたかのように、嫌がらせは一気に増長していった。父急逝後二年弱でAは発熱して平熱に戻らなくなり、働き続けたものの一年半後に病気休職と相成った。そのころには常時、全身の痛みと前述の疼痛そしてインフルエンザのような悪寒に震えていたので、自由に外出もできず、葛根湯を飲んで布団をかぶってこらえているしかなかった。ただ、「暖かくなったらいわき(福島県いわき市)に行こうね」とAの祖父母の暮らす地にわずかな希望を見出して、子どもたちと励ましあっていた。まだ寒かったが、冬が明けて春の兆しがみえてきた2011年3月11日に東日本大震災が発生。いわき市も襲われ、近くの原子力発電所が爆発して内容物が風にのって辺り一面に降り注いだ。いわき市でも若い世帯を中心に逃げられる人たちは一斉に土地を離れた。市役所職員も姿を消して、当初一ヶ月は行政がまともに機能しなかった。帰れるはずの地が汚染され、置き去りにされるのを聞きながらAは子どもたち共々いよいよ帰れる地を失った。

原因不明の発熱は、不明熱といって診療拒否に遭うことが多い。やっとつけられた病名を言えば、救急車を呼んだときでも搬送先を探す救急隊員が最寄りの大学病院から次々と断られてしまう。「処置不能、だってよ…」と呟きながら救急隊が一時間も遠くの病院まで苦心して探し、やっと探りあてても「同伴者があればいいが子どもの同伴ではダメ」と言われる。同伴者もなければ、あてもなく子どもだけ置いて行くわけにもいかず、結局救急搬送など利用できないことが分かった。

病気休業で仕事を休めばよくなる、と期待していたが、気を張り詰めていた仕事から解放されると四六時中きつい症状と向き合わなければならなくなり、ベッドで煩悶するばかり。良くなる気配が感じとれないばかりか、むしろ病は日増しに進行していた。休職して半年以上経った東日本大震災の後にはなぜか電撃的に悪化して、ときに眼球以外動かせなくなって寝たきりとなってしまった。その後も消耗すると、数ヶ月にわたって呼吸筋が自発的に動かなくなって息が吸えなかったり、声帯の筋肉が動作せず声が出ない期間をすごすようなことが起こるようになった。

初めは近所の人たちが差し入れてくれた手提げ袋をベッドのそばに置いて、クラッカーやパックのジュースを口にして生きのびていた。身長約120㎝ と135㎝の小学生だった子どもたちが家事をしようと奮闘していたが、子どもだけで外出させない方針で育ててきたためパンを買いに行くこともできなかった。やむなく餅をトーストし、ジャムをのせて神妙に味わっていたり、脱水の終わった洗濯物を取り出そうとして頭から洗濯機に突っ込んでいた。

子どもたちは家にいる間中、家事のほかに親の介護をする生活になってしまった。働けなくなったAには家賃と社会保険料が重くのしかかる。心ある社会保険労務士に縁あって円滑に障害年金が認められると、児童扶養手当は併給できないとして遡及して返還することを求められた。仕方なくA自身は重湯や粥の一日一食にとどめて、子どもたち優先で食事を摂らせていたが成長は遅く、しばしば疲れやすさを訴えていた。おかずが少ないせいか、運動もしていないのに二人はご飯をおかわりして毎食四膳ずつ食べる。成長期の子どもは成人の倍以上食べるから本当は成人五人分以上を用意するのが適当だったのだろう。

それでも家計は成人二人分を用意するのが精一杯だったため、それを家族で分かちあうのがルールだ。工夫をこらして食卓を整えているのに血液検査では家族全員が鉄欠乏性貧血と低コレステロールを示すようになり、医師から栄養不足を指摘されるようになった。

Aの様子を見た行政職員はきまって、生活保護を勧め、子どもたちを養護施設に送るよう勧めた。ひとり親が倒れると親子を引き離して一家離散する方法しか援助のしようがないという。今にも明日の命があるか分からないような苦しい病の中で、Aは家族での暮らしを失うことに猛反発した。また養護施設は不適応行動への対処に追われがちで、子どもたちの素質を十分に伸ばす教育を進めるゆとりがないことも分かっていた。Aの家庭は、地域のつながりだけを命綱として、荒海を小舟で漂うように頼りなく出航した。

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