「消えたい」を促す世界に取り囲まれて

座間事件に触れ思うこと

中西 新太郎

なかにし しんたろう | (社会哲学、現代日本社会論)



「死にたい」「消えたい」をどこで受けとめるか

 

座間事件をきっかけににわかに広がった「死にたい」とつぶやく若者への注目にはどこか歪んだところがないだろうか。そうした注目には、彼女ら彼らの厭世観にひそむ病理を探り当てようとするまなざしが感じられるからだ。「死にたいなんて思ってはダメ」と若者に応答する善意のなかにもそうしたまなざしはある。「何とかしたい」という善意――この善意が貴重なのはもちろんだが――が向ける対象は、あってはならない感じ方や振る舞いで、なぜ死にたいと考えてしまうのか、どうしてもその「異様さ(普通ではない状態・意識)」にのみ焦点が絞られてしまう。

 

「死にたい」「消えたい」を実践されては困る、くい止めたいと考えるのは当然である。相模原事件を突出した頂点に、新たなすがたで浸透し始めている優生思想と闘う上でも、「死にたい」「消えたい」を放置するわけにはゆかない。しかし、そう考える前提に、普通の若者なら「死にたい」などと言わないはずという思いこみがあるとすれば、それはちがう。「死にたい」「消えたい」は、推測するに、若者たちの日常感覚内に常在しており、普段はそれがあからさまに表出されないだけのことである。そう言ってしまえば、すぐさま「病んでる」という視線が飛んでくることは確実だから、「普通じゃない」というありがちな反応を予測して、「何が普通かもわからないくせに」と内心つぶやきながら、「死にたい」「消えたい」を心中に押しこめ日々を過ごす。明るみに出されるつぶやきの下には、「死にたい」「消えたい」がそこかしこで泡立つ沈黙の大海がある。「今も死にたい。今すぐとかじゃないケド チャンスがあればいつでも 逝きたい理由は重なり過ぎて 重すぎて 口に出すのが怖い。」

 

重すぎて「普通」のかたちでは吐き出せない気持ちが、見かけ上さらっと出現する状況を想像してみよう。(ツイッターのようなSNSはそういう状況をつくりやすい手段だ。)「死にたい」というつぶやきは沈黙の大海から僅かに浮上した言葉であるのだから、ようやく出されたその声を聴きとり掬いとることができなければ、つぶやきは波間に沈んでゆくだろう。どのような言葉も外界へ自分をひらいてゆく窓であり、どんなに小さなささやきでも、外界に向かって呼びかけている。その呼びかけを受けとめられるかどうかは、「外界」の側の問題である。外界に位置する(と感じている)者に向けられたこの呼びかけは、「応答しようとする私はどこにいるのだろうか」という自問を促している。受けとめるとは、そういう自問を避けないということであり、これを不問に付した対処は、「死にたい」といつ感じるかもしれず、また、そう感じることのできる共通の場(共にある世界)に立っていない。そうした対処(*3) が無意味だと言うつもりはないが、この社会の一員として「死にたい」「消えたい」を受けとめようとすれば、上述の自問を避けるべきではないだろう。私たちの大半がそういう「社会人」として生きている以上、誰かが「死にたい」を抱えながら生きる、その同じ場に立っていることの自覚を迫られるということである。そしてそうであるがゆえに、「死にたい」というつぶやきに向き合うことは難しい。

「そんなことを考えてはダメ」という即答でもなく、「一緒に死んでもいいよ」という「共同」でもない、そうした二者択一の問題化を超えて「共にこの世界にある」かたち、共に生きられる社会とはどのようなものか――これが考えてみるべき課題である。

 

現代日本にありふれる「病む」感覚

 

「死にたい」「消えたい」感情が若者たちの日常世界にありふれており、ありふれているからこそ、この感情を露呈させる人間にたいし、「病んでる」、メンヘルというレッテルが貼られることを確認しておこう。ヤンデレという言葉が象徴するように、病む(と判断された)人間の振る舞いが、逆に、ねじれた偏愛の対象となることも。正確な変遷史をここで辿ることはできないが、明治期から延々と引き継がれてきた変態観念が、いわばキモカワの次元にまで変容してきたことを念頭におくと、死にたい願望を表出する存在にしても、「変な人」の範疇にただ収められるだけであり、それが現にある対処の実像なのかもしれない。現実的根拠の有無はともあれ、「中二病」表象の類が浸透したのも、日常行動の次元での「逸脱」がありふれた状況として了解されていることの現れであろう。

 

「自我をしっかり保てない、その人の顔色声色をうかがいその人にあわせた自分をつくる あいつはそうゆうヤツだから自分を見失い 精神が不安定になってしまう すぐ薬に頼る人に頼る でも薬が効かない そうゆう相談ができる友達もいない 作ろうという積極性がない 自分からみたすみれはそうゆうヤツ ロブ@大月さんでしたか? 彼女がメールおくってたのは自分しってました。 ノートの上でもしつこいからやめろといいました でもやめませんウザいようでしたらはっきり突き放してやってください それが彼女にとっての優しさだと自分はおもいます」

 

自殺志願当事者の「彼氏」によるこの述懐を単純に突き放した態度のように受けとるのは早計(むしろ、かかわり合える場所にいるのかという問いかけが窺える)だが、そうでしかありえない現実なのだから心情的介入には限度があるという距離感をともなって「死にたい」願望とこれを抱く者とをとらえている。「だから引く」という対応も、「だから好む」という対応も、そうした認知枠組みの点では同じである。死にたい願望の持ち主にメンヘルというステレオタイプのラベリングが行われるようになった背景には、精神的に病む事態が自分たちの生きる世界のそこかしこに埋めこまれており、珍しくも異常でもないという認知がひそんでいる。

実際、この認知は非現実的な想定ではない。現在の社会体制・社会文化に違和感を感じついてゆけず、適切とみなされる振る舞いもできないという意味での「逸脱」現象――この規定は、言うまでもなく、「逸脱」を個人の何らかの特質として位置づけるメンヘラ等々のラベリングとは異なる――は、それらを生じさせる根拠は一律でないにせよ、ゼロ年代以降の若年層の日常世界では、特異な事態でも例外でもない。たとえば、首都圏公立中学163校の調査(東京学芸大学・日本イーライリリー2009)で、ほぼすべての学校に心の健康状態に問題を持つ生徒がおり、精神医療機関での受診生徒がいる学校は83・7%に上る。生徒から自殺相談を受けたことのある学校も50校余りである。学校が把握している範囲であるから、悩みを抱える子どもたちの範囲はさらに広がるだろう。社会的不適応の突出した事例とみなされる引きこもり者とその親和群でさえ、それぞれ、69・6万人、155万人(内閣府政策統括官「ひきこもりに関する実態調査」2010年)と、周囲に思い当たる誰かがいるほどの規模である。

 

こうした「逸脱」状態を促す意識基盤として、若年層における自尊心(自己肯定感)の剥奪状況があることは、すでに多々指摘されてきた(*5)。 自己肯定感の剥奪は小‐中‐高と学齢階梯の上昇に連れて高まり、自分には価値がないと感じる少年少女が「順調に」育ってゆくのである。こうした無力感を抱える者の割合がきわめて高率であり、かつ、「優等生」をも含む一般的現象である点で、現代日本社会における若年層の意識が国際的に特異であることも、すでに各種の比較調査にもとづいて指摘されてきた。自分には大した価値がないという自己認知が、「自分には生きる価値がない、生きる意味が感じられない」から、「死にたい」「消えたい」願望へとなめらかに接続しうることは了解できよう。「死にたい」「消えたい」願望は、若者たちが、時には自分でも気づかぬ間に、すっと入りこんでしまえる感情なのである。

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