父・火野葦平と戦争と平和と

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玉井史太郎さん(北九州市わかまつ九条の会代表、火野葦平旧宅「河伯洞」管理人、火野葦平3男)に聞く

 

――昨年末、『インパール作戦従軍記―火野葦平「従軍手帖」全文翻刻』(集英社)が出版されました。解説や資料などを含めて600頁近い大部なものですが、3刷とうかがいました。どのような感想をお持ちですか。

 

玉井 葦平は戦後、公職追放(1948年~50年)を受けましたから、どうしても戦犯作家というイメージが強いわけです。戦後民主主義の流れのなかで、戦時中のものはすべて否定されましたから、とくに左翼系の人たちから葦平の作品は否定され、軽視されました。葦平自身は、たしかに兵隊3部作といわれる「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」をはじめ戦場に題材を得て作品を書いたのですが、本人は戦争や兵士の実相を書いたつもりでいて、それで国民をあおったとは思ってもいなかったのではないでしょうか。ですから、みっともないほど追放処分撤回の運動をするわけです。

 

沖仲仕(ごんぞう)の血が作風の底流に

 

――私は、ずいぶん前に市民会館の火野葦平資料館を訪ねたことがあります。そのとき、おやっと思ったのは、その追放処分撤回の嘆願の筆頭に志賀直哉が立ち、ほかにも、戦争に非協力的といわれた作家たちが名を連ね、葦平との交友もずっと深いものがあることがうかがわれたことでした。それを見たときに、「戦犯作家」というレッテルを貼って作品も読まないでいたことを反省させられました。

 

玉井 葦平は、たしかに戦時中、「糞尿譚」で芥川賞を受賞しますが、ごんぞう(筑豊炭鉱から遠賀川を通って運ばれてきた石炭を若松港で荷揚げする沖仲仕=港湾労働者のこと)の息子に生まれ、育ったことから生涯離れることはなかったと思います。作風の根底に一貫して流れていたと思います。戦争3部作でもわかるように、朝鮮人や中国人を見下げたような描き方はしていません。葦平の父親が興した玉井組、葦平の小説「花と龍」にえがかれていますが、そこで働いたごんぞうの半分以上は朝鮮人でした。私らも小さいときによくおばあさんから、差別したらイケン、と懇々といわれましたが、葦平もそういわれて育ったと思います。

 

――宮本百合子は「麦と兵隊」はじめ3部作には、人間火野葦平としての自然な感情が盛られていると、日本軍兵士や中国人農民への視線を評価しています。もっとも、それが戦争の狂気に馴らされてしまっている、それがなぜなのかの追求がないときびしい意見を 添えてですが。

 

玉井 私もそう思います。そこは、同じ戦場をえがいても石川達三の「生きてゐる兵隊」などとの大きな違いじゃないでしょうか。それを書けば評判をとるとか、売れるとか……そういうものは葦平には一切ないように思います。目線もずっと低い。日本軍兵士に注ぐ目は同じ仲間というものです。中国の農民には作物をつくる労苦を厭わない労働への共感を隠しません。そこには、玉井組の若親父としてごんぞうたちをまとめ、彼らの生活を守るためにストライキの先頭に立った、そういう経験、意識が生きているように思います。

いま、ようやく葦平の作品も公平に読めるようになってきたのではないでしょうか。葦平と同時代の人たちは、なんといっても、同時進行的に葦平の3部作を読み、戦況に一喜一憂しながら、日本勝て、勝て、となっていたわけですから、自分をそうさせた葦平を否定する以外にないのですが、いまの人たちは違うと思います。

 

二十数冊の従軍手帳

 

――それにしても、インパール作戦に従軍したものだけでも6冊ですか、手帖に記録しています。作家の従軍記録は日記などを含めていくつかありますが、海軍だった野口冨士男さんなどは靴底に隠して持ち帰ったもので、いずれもこれほどの量はありません。火野葦平が報道班員だったこともあるとはいえ、驚きですね。

 

玉井 全部で二十数冊あるんです。小説の材料になればという気持ちで書いたのでしょう。発表を前提に書いたものではないといっても、そこはおのずと自己規制がかかりますし、まして、何が検閲に引っかかるかを葦平は十分承知ですから、あからさまな軍部批判などはありません。ただ、そのときの兵士の様子ひとつとっても克明に書いていますから、インパール作戦がいかにひどいものであったかは伝わってくるんですね。

記録といえば、葦平の父親、金五郎もそうでした。「花と龍」の主人公、玉井組を興した人物です。学校を出ていないので漢字とカタカナばかりですが、荒々しい生活のなかで組どうしの争いなどをそれは克明に記しています。銃砲弾が飛び交うなかでもペンを離さなかった葦平、命を付け狙われるような生活のなかでも大量のメモを残した金五郎。親子ですねえ、似通っています。

インパール従軍記は、戦後、ちょうど公職追放――葦平は公職にはなかったのでこの言い方はおかしいと思いますが――の時期に小説「青春と泥濘」に書き表されます。私は、手帖の記録というものは、作家を知るうえでは大事であるだろうけれど、小説は別のものだと思っています。葦平も常々、作家は作品が第一、といっています。

「青春と泥濘」は、葦平の兵隊3部作の集大成、完結編といわれるものです。中国戦線からついにインパールに至る、あの日中戦争を葦平がどう受けとめていたか、受けとめるか、はもとより、兵士たちがどれほど無謀な作戦に踊らされたか、それでもいかに懸命にたたかったか、仲間どうしいかに支え合ったか、それを書き尽くしています。インド兵への視線もしみじみと温かいものがあります。ぜひ読んでほしいと思っています。近年、社会批評社が「火野葦平戦争文学選」全7巻のうちの1巻として出版してくれましたが、「密林と兵隊」と題を変えてしまっています。著作権が切れているので私どもではいかんともしがたいのですが、それでもみなさんの目に触れる機会を得ましたので、ありがたいことだと思っています。

小説のなかで島田参謀としてえがかれている三橋参謀の娘さんがここ(河伯洞)に来られたことがあります。ですが、そういう作品があることをご存じありませんでした。翻刻された『インパール作戦従軍記』のあとがきに書いたことですが、三橋参謀も、自分は火野君と一緒に寝起きをしながら前線から後退をつづけたが、そのあいだ、彼はじつに丹念にメモをとっていた。もしも生きて帰ったら必ず小説に書くといっていたが、酒ばっかり飲んでちっとも書かずに死んでしまいやがった、といわれていたそうです。「青春と泥濘」という作品のあることをご存じなかったのですね。

 

――『インパール作戦従軍記』はその意味でも火野葦平を見直すいいきっかけのように思いますが……。

 

玉井 評価が変わってきたように思います。おかげさまで「朝日」「毎日」「西日本」などで書評に取りあげてくださいましたし、共産党の「赤旗しんぶん」でも文化欄の「朝の風」で紹介してくださいました。従来の無視ないしは軽視からみるとずいぶんな変化です。

(以下は本文をお読みください)

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