スポーツが文化であること

―波立つスポーツ界を糺す

廣畑成志

ひろはた せいじ | スポーツ政策



■スポーツに警告が発せられている

 

最近のスポーツ界の荒れようは目に余るものがある。

今年1月には女子レスリングの伊調馨選手へのパワーハラスメントが告発された。4月には大相撲の巡業で挨拶中に倒れた市長の救命で土俵に駆け上った女性看護師へ、行司が「土俵を下りなさい」とアナウンス、協会は「穢れた」と土俵に塩を撒いた。

5月には日大アメフト部の監督・コーチからの「組織的な指示」による悪質タックル問題が起き、騒然となった。さらに7月には、日本ボクシング連盟の会長差配による助成金の不適正な流用、試合での不正ジャッジ疑惑が発火した。

醜聞はあとを絶たず、スポーツ界は荒れ放題だ。その光景は、〈フェアでリスペクトしあう世界〉からほど遠い。人びとはあきれ果て、「いったいスポーツの世界はどうなっているのだ!?」と疑念と不信が募るばかりである。

波立つスポーツ界に、内部でも危機感が漂う。アメフト問題では、反則プレーを裁いたレフリーが、即座にイエローフラッグをたたきつけ、「何をしているんだ。フットボールに集中しよう」と声を露わにした。

ボクシング協会会長の横暴運営では、プロボクサーの村田諒太選手(ロンドンオリンピックの金メダリスト)が声をあげた。Face Bookに投稿し、「そろそろ潔く辞めましょう、悪しき古き人間達、もうそういう時代じゃありません」と。

あまりにも世間の常識と社会の規範からかけ離れている。そのもとでスポーツは劣化のきしみを立て、文化としての光沢がはがれ始めている。時折、国際舞台での日本選手・チームの活躍に沸き返るが、諸手を挙げた〈スポーツ賛歌〉は聞こえてこない。

このままスポーツとその世界は腐朽の坂を転げ落ちていくのか。〈いったいスポーツとはなにか〉。〈スポーツ組織の役割はなんなのか〉。この警告的な投げかけに傾注し、あらためて原点からの警鐘を鳴らす時だ。まずは、その問題と課題をえぐろう。

 

■スポーツは暴力からの解放の文化だ

 

これだけ暴力事件が多発すると、安易に〈スポーツ=暴力〉との等式で括りたくなる。

プレーに失敗して殴られる。「たるんでいる」と言われて蹴りを入れられる。試合に負ければ、「連帯責任だ」と炎天下を数時間も走らされる。倒れ、失神するまで……。それらが体育館や道場の密室で、グラウンドやフィールドの公衆の面前で繰り返される。

暴力を肯定する謬論が跋扈する。〝愛のムチ〟論しかり、「代理戦争」論しかり。血の汗を流すほど強くなると説く。弱肉強食の社会を生き抜くには、「強圧に耐え抜く胆力を培え!」とうそぶく。耐えられなければ、「人間があまい」と蔑まれる。

スポーツの世界というだけで、暴力や体罰が白昼堂々とまかり通る。殺し・破壊するテロ集団や暴力団などの非合法組織ではあるまいし。れっきとした合法組織での話だ。もとより暴力肯定の文化などあり得ないことなのに……、異様で異常だ。

ここには、大きな誤解と倒錯がある。なぜなら、そもそもスポーツは暴力否定の文化であるからだ。人間の身体的能力を暴力から解放して自由を獲得していく文化だからだ。この原点が説かれれば、〈スポーツ=暴力〉の等式のまがいさはたちどころに暴かれる。

人間は労働によって巧緻な身体的能力を獲得してきた。それを労働や生活手段の拘束から解き、自由な時間に、巧みな操作と多彩な表現を意図的に援用する。そこから、音楽を、絵画を、そしてスポーツなど人間の全的発達を押し進める多彩な文化を創造してきた。

激しいコンタクト(接触)や危険な行為を伴う直接的な身体活動だけでは、戦闘であっても、スポーツにはならない。それを制御し、安全を確保する理性が作用して、遊戯やゲームの形式を整えることで、はじめて文化としてのスポーツが成立する。

スポーツのプレーである身体活動の操作と表現は、徹底して暴力を排除した空間で演じられるものであり、人間的自由の営みである。スポーツ化とは、身体活動を野蛮から解放し、より洗練された文化的な身体活動に飛躍することを意味する。

スポーツの発展過程を見れば、その〈非暴力化〉は一目瞭然である。例えば、ナックル(素手)の殴り合いであったボクシングは、グローブを装着することでスポーツとなった。殺傷の武具であった刀剣が竹刀の開発で、剣道として伝統文化となった。

暴力からの解放こそが、スポーツが文化であることの所以であり、資格である。にもかかわらず、このスポーツの本質が命題として語られてこなかったところに、日本のスポーツ界の大きな弱点がある。本質が抜けているから、さまざまな不祥事が起きる。

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