火野葦平「青春と泥濘」論

―人間の真実を希求する物語

増田周子

ますだ ちかこ | 日本近現代文学



はじめに

 

火野葦平は、日本の太平洋戦争の末期におこなったインパール作戦に従軍し、数多くの小説や、エッセイを残している。インパール作戦とは、援蒋ルート遮断のために連合国軍の拠点、インド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦で、第15軍司令官牟田口廉也のもとに、「烈」(第31師団)、「祭」(第15師団)、「弓」(第33師団)の三兵団が編成され、昭和一九年三月八日~七月三日まで遂行された。この作戦は、四月五日頃までの初期は、日本が優勢であった。牟田口も作戦実施は「天長節(四月二十九日)まで」とし、当初は雨期が来る五月以降は戦争を続ける気はなかったのである。)しかし、インパールを制覇できないまま七月三日まで作戦を続けた。さらには牟田口に進言した三兵団すべての師団長が更迭されるなど、前代未聞の事態を引き起こした。こうして、戦争が長期化するにつれ、食料、物資などが欠乏し、三師団だけで三万六二四五人という多くの餓死者、負傷者、行方不明者を出し、歴史的敗北を喫した。インパール作戦は、補給線を軽視した杜撰で無謀な作戦であり、死の作戦とも呼ばれる悲惨な結果を残したのである。

火野葦平は、インパール戦に、古関裕而、向井潤吉ら親友とともに陸軍報道班員として、従軍する。火野は出発前から、自らの死を覚悟していたようで、その覚悟を次のように語っている。

 

劉塞吉や、岩下俊作は、「今度こそは、お前は死ぬぞ」といった。私も死ぬかも知れぬと思った。(中略)晴れがましいインパール入城どころか、インパールの土と化す。その可能性は充分にあったのである。しかし、私は覚悟していた。今から考えると、その悲壮感が尋常ではなかつたと回想されるが、そのときの私は、日本が興亡を賭けた最後の戦場に屍をさらすことに、責任のようなものを感じていたのである。インパール作戦従軍は、私が志願したのであった。

 

火野は、たとえ自らが死ぬとしても、それを恐れず、陸軍報道班員としての責任を果たそうと志願したのであった。火野は、最前線を戦っている師団たちよりもかなり遅れて昭和一九年四月二五日に飛行機で日本を出発、二九日はビルマ派遣軍司令部のあるラングーンに着く。「描く勝利の記録」によると、火野は、「ビルマ戦線基地で兵隊の気持ちで渾身の力を傾けて報道の任を完うしたいと語つてゐる」(*6)とある。これまでの中国戦線と同様に報道班員として、戦争の実態を赤裸々に知らせることに全力を尽くすつもりだったのであろう。火野は、インパール作戦だけでなく、雲南・フーコン戦にも従軍し、火野の残したインパール戦の『従軍手帖』を見ると、九月三日にようやく、ラングーンを出発し、九月九日、日本に到着することとなった。

火野は、日本が敗戦を迎えた戦後まもなく、インパール作戦に従軍した体験をもとに多くの作品を創作した。その代表作は「青春と泥濘」であろう。「青春と泥濘」は、『風雪』に昭和二三年年一月一日~五月一日まで連載された。火野が公職追放を受けたため止むを得ずいったん中断するが、その後、昭和二四年三月に「青春と泥濘」の一部「地獄の門」を『新小説』に、四月「太陽と岩石」を『叡智』に、一二月に「粉砕されたもの」から「地獄の門」までを『風雪』に発表して完成に至った。実に一七章にわたる長編小説である。そして、翌年、六興出版から初版本『青春と泥濘』(昭和25年3月1日)が発刊された。火野葦平は、この初版本『青春と泥濘』の「後書」冒頭で、次のように述べている。

 

「青春と泥濘」がここに、一本にまとめられて上梓されることは、私のひとつのよろこびである。これは私の数多くの作品のうちでも、私にとつて大切な作品であるとともに、他の人々にも、ぜひ読んでもらひたいもののひとつである。私はこの作品を、私の人間としての、そして、作家としての全責任をもつて、力をこめて書いた。私はこの小説の最後の行の筆をおいた とき、涙があふれて来てとまらなかつたことを、告する。

 

書き終えて感無量の思いで涙したのは、火野自身も、「大切な作品」と述べる「青春と泥濘」を書き終えた、達成感なのだろうか。すなわち「青春と泥濘」は火野の描きたいことが詰まった作品なのである。本稿では、火野の残した、実在のインパール作戦の実態を綴った『従軍手帖』のことにも触れながら、「青春と泥濘」をとりあげ、その内包する平和的テーマについて論じていきたい。なお「青春と泥濘」の作品研究は、原武哲「「青春と泥濘」―〈悲しき兵隊〉への鎮魂」(『敍説 』13号)がある。詳細な研究であるが、「青春と泥濘」には「思想性の希薄さ、感情に惑溺した物足りなさ」があり、「人間と戦争の本質を深化させないまま」だと述べている。「青春と泥濘」に対し余り高い評価をしていない点は、論者と見解を異にする。

 

一、インパール作戦と「青春と泥濘」

 

「青春と泥濘」はインパール作戦の「弓」師団の下級兵士今野軍曹率いる一部隊の熾烈な戦いを描いた作品である。田丸兵長、小宮山上等兵、自殺する稲田兵長などが登場する。作中の島田参謀は、稚児参謀と記されていて、火野の『従軍手帖』中に登場する三橋参謀、瀬島軍司令官は牟田口中将を指すと考えられる。

作品中には、島田参謀の話として曽田閣下を、「師団長は軍刀組で頭のよいことは無類なんだが、こんな戦争には適当でないかも知れんな。太つ腹で、図太い神経の人でないと、ちよつとかふいふ凄惨な戦には向かんよ。(中略)このごろでは、軍司令部と喧嘩ばかりされとる。」と記している。この曽田閣下は「満州で特務機関の仕事をやつた人」(86頁)とも書かれているので、更迭されてしまう「弓」師団の柳田元三中将らしい。つまりは、この『青春と泥濘』は、インパール作戦に関わった軍が登場し、『従軍手帖』の記述ともオーバーラップする部分は多い。さらに指摘すると、作品中での瀬島軍司令官のこんな会話がある。

 

戦争は神聖なものだ。戦争は戦争の神聖さを信じて、これに没入する者に、いつでも勝利を与へるんだ。俺はいつも部下へ三つのホルモン注射をする。第一は必勝の信念、かならず日本が勝つといふ強固な確信を持つこと、第二、戦争は外国人の考へるように、悪ではないこと、正義の師は善なること、第三、人生の完遂は臣下としての任務完成以外になにもないこと。こんなこと、みんな当りまへのことばかりなんだよ。

 

この会話は、『従軍手帖』の六月一日に、牟田口中将から火野が聞いた言葉としてほぼ同じ内容が記されている。このように、『従軍手帖』の記述が作品に生かされていることは事実である。火野自身も、作品を書く際に、「私には従軍当時のノートがあつたので、そのよごれた、糸もきれかかつてゐる手帖をくりながら、当時の凄惨な印緬戦場を、まざまざと瞳と心とに再現した。」(「後書」同)と述べている。

だが、一方で、「インパール作戦に取材し、印度戦場を舞台としてゐるが、いはゆる戦争文学でも、戦場記録でもない。単なる私の小説である」(「後書」同)と記すように、単なる戦場記録とは程遠い作品なのである。次章からは、内容をおいながら、作品のテーマを見ていきたい。

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