いまよみがえる広津和郎

散文精神について

伊豆利彦

いず としひこ | 故人、日本近代文学



私は広津和郎を戦争中は知らなかった。広津の作品や評論をいくらかでも系統的に読んだのは、広津が松川事件に対する積極的な発言をはじめ、『わが文学論』が刊行されてからである。

実は、その前にも広津の戦時中の評論に触れ、これを戦時下の文学者の抵抗として、歴史学研究会編纂の講座『太平洋戦争史』で取り上げたことがある。多分、「『弱さ』と『強さ』」(昭和12・4 『新潮』)、「国民にも言わせて欲しい」(昭和14・10 『文芸春秋』)、「政治と文学」(昭和15・2『文芸春秋』)などを戦争中の雑誌から見つけて紹介したのだと思う。戦争中にこんな文章が書かれたということに対する驚きが先で、広津の思考の内部に立ち入って考えることはなかった。

『わが文学論』はいま読めば、広津の思想の根幹が凝縮されて、興味つきない評論集だが、当時は松川裁判に抗議する作家という意識が先にあって、広津自身の思想の特質については読み取ることができなかった。

広津の意味についていくらかでも理解できたと思ったのは、大正文学会発行の『大正文学5』(1999年12月発行)に「松川裁判と広津和郎 生涯をつらぬく文学的戦い」を書いたときだった。

簡単に松川裁判について書くつもりだったが、広津のたたかいの特質を明らかにするために、その出発点から検討し、悪戦苦闘した。ページ数もふえて、大正文学会にはご迷惑をかけたが、私にとっては広津のたたかいの根柢にあるものにいくらかでも触れることができた喜びがある。

この文章を書いていて強く心に残ったのは「『平和』と『平和』の絶叫が高調に達する時、われわれは『戦争』の足音の近づきを聞いて恐れおののくのです。何故かというと、それは古来の歴史が証明しているからです。戦争はいつでも『平和のため』という旗印を先に押し立ててやって来るものだからです。」(「多難なれども」『群像』1950年8月号)という言葉である。

 

米ソの対立が激化し、ソ連が一九四九年八月二九日に原爆実験に成功して、核兵器開発競争がはじまった。トルーマン米大統領は五〇年一月に水爆製造指令を出し、平和を旗印とする核競争が世界を不安に陥れた。中国革命が成立して、アメリカは中ソを除外した単独講和と日本の再軍備を急いだ。四九年の選挙では共産党が三五人の当選者を出す大躍進をとげたが、国鉄の大整理にからんで、下山事件、三鷹事件、松川事件と怪事件がつづき、国民の支持をうしなって勢力を減退させた。

朝鮮戦争の勃発は五〇年六月二五日だが、それ以前から、いつ戦争がはじまっても不思議でない張りつめた雰囲気だった。当時私は立川基地から近い三鷹に住んでいたが、毎日米軍機がひっきりなしに頭の上を飛んで行った。立川の基地に夫が勤めているという主婦は、戦争ですよ、毎日、大変な資材が飛行機で運ばれていると語っていた。

終戦から五年、新憲法制定後三年、はやくも日本はアメリカの戦争体制に組み込まれ、逆コースと言われる再軍備の道を歩きはじめた。国民生活の現実はようやく飢餓は脱したものの、人々の暮らしは苦しかった。都市はまだ広大な部分が廃墟のまま残され、人々はようやくバラックを建てたりしてわずかに息をついていた。戦争の記憶がなまなましく、平和を求める気持は強かったが、きびしい日々の生活に埋没する毎日だったように思う。

平和運動にもっとも熱心なのはソ連を支持する共産党だった。国際的にも、一九四九年四月に第一回平和擁護世界大会がパリとプラハで開かれ、原子兵器禁止、軍拡と軍事ブロック反対、日・独の再軍備反対などを世界に呼びかけ、五〇年三月に発表されたストックホルム・アピールは短時日の間に五億人の署名を集めた。

日本でも全面講和と民族独立をかかげ反米闘争と結びついて平和運動が展開したが、共産党主導の運動に反対し、アメリカの後押しもあって、反共民主化を標榜する総評が結成されるなどの動きも強まった。五〇年一月のコミンフォルムによる日本共産党に対する批判は、共産党内にも分裂をまねき、分裂は文化・文学運動にもおよんだ。

 

このような状況で朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮軍の南下は南朝鮮をアメリカの支配から解放して社会主義的な民族統一国家をめざすものとされたが、それはソ連の承認と支援なしには不可能だった。また、前年の中国革命の勝利、中華人民政府の樹立も北朝鮮を鼓舞激励した。

アメリカはただちに参戦したが、苦戦を強いられた。一時は釜山地区の一角に押し込められる勢いで、各地に人民政府が樹立され、武力解放による民族統一は実現するかに見えたが、北朝鮮軍の補給線が伸びきった九月一五日、アメリカ軍は仁川上陸作戦を敢行し、九月二六日には首都ソウルの奪回に成功した。以後、米軍は南北境界線を超えて北進し、中朝国境に迫るにおよんで中国の人民義勇軍が参戦して押し返し、一進一退の激闘をつづけた。この戦争の犠牲者については正確な数字はわからないが南北合わせて460万人が犠牲になり、離散家族は1千万に達するという。

 

ソ連が参戦したらどうなったか。核戦争の危機はけっして空想ではなかった。日本の知識人、労働者は全面講和を求め、反米的傾向を強めながら反戦平和の運動を強めた。しかし、広津はこのような平和運動の高まりに同調することをしなかった。平和を求める運動が米ソどちらかに加担することになるのを嫌ったのである。

広津は政府や新聞報道を信じて、三鷹事件や松川事件を共産党の仕業だと思っていたという。アメリカの支配もおそろしいが、ソ連や共産党の支配もおそろしい。「それだからわれわれは口に出して『平和』を叫ぶ事が恐ろしい」と広津は言う。平和と民主主義、自由と解放の思想が国民を反米もしくは反ソにかりたて、戦争に動員することをおそれたのだ。

広津はソ連のスターリン主義に対する強い不信を抱いていた。朝鮮で激戦がつづいていた一九五一年のはじめに書いた「熱海にて」(『群像』51年3月号)に、当時、翻訳が出てベストセラーになったケストラーの「真昼の暗黒」やゲオルギウの「二十五時」などに心を動かされたことを記し、「政治が人間を圧迫して、呼吸もつけないような窒息状態に陥らしているヨオロッパの苦悩の種々相に心をつかまえられていた」と述べている。

当時の私は、反米独立の思想に立ち、ソ連を信じ、平和と民主主義のためにたたかおうとしていたから、こうした広津の立場を理解することはできず、中間的で微温的な日和見主義として否定的だった。アメリカは原爆の使用もあり得ると公言していた。アメリカ帝国主義が悪の根源だ。アメリカ帝国主義を打倒しなければ本当の平和も民主主義もないと信じていた。

広津は左からも右からも批判された。それが広津の位置だった。

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