詩人尹東柱と現代日本の教育現場

沈元燮

シムウォンソプ | 韓国近代文学



1、暗黒期の星

 

1944年1月6日、北京の日本領事館の地下監獄で一人の韓国人が死亡した。数年後、彼の親戚が保管していた原稿一枚が公開された。

 

北方ツンドラにも 冷たい夜明けは

雪のなか深く 花のつぼみの動き

燕の群れ 黒々と飛び来るを待つ

ついに 違えざる約束よ

「花」2節

 

これは、独立運動の嫌疑で10回余りも投獄と釈放を繰り返し、1943年6月に逮捕され、6ヶ月後の1944年1月に死亡した韓国詩人李陸史(1904―1944)の遺詩である。彼は詩も独立運動のための武器になれると思っていた人物である。

どれほど厳しい寒さの中でも、生命は芽生えることになっているし、春は数万羽のツバメの群れと共に、南の空を真っ黒に覆いながらやってくるに決まっている、ということである。これが、人間と歴史を動かす真の法則であるという信念を彼はもっていた。日本軍の連勝のニュースが新聞紙面を飾っていた時、韓国の有名な文学者たちが戦争協力のために動員されていた時のことであった。李陸史という詩人が、韓国人に尊敬の対象になっている理由がそこにある。

こういう詩を書いた人もいる。

 

自由を知らないのではないけれども あなたにはひ たすら服従したいのです

服従したい人に服従するのは 美しい自由よりも甘 美なのです

それが私の幸せなのです

「服従」一部(1926)

 

服従する価値のある対象に服従すること、これが真の自由である、ということだ。この詩を書いた韓龍雲(1879―1944)という僧侶詩人は、服従する価値のない対象であると思った日本帝国主義には服従しなかった。彼も、一生投獄と釈放を繰り返し、1944年に死亡した。

上記の二人の詩人は、日本帝国主義に対する徹底した抵抗で一貫した詩人たちである。作品の芸術性も非常に優れている。韓国人は、この二人の詩人を「抵抗詩人」と呼んで、敬意を表している。

この二人とは違って、生前に詩人としてデビューしたこともないし、はっきりした独立運動の経歴もないにもかかわらず、現代の「韓国人が最も愛する詩人1位」という名誉を博している青年がいる。同志社大学に留学中、治安維持法違反で逮捕され、福岡刑務所で27歳の年で絶命した尹東柱(1917―1945)という青年がその人である。

彼は、韓国の延禧専門学校(現在の延世大学)在学中であった1941年、次のような詩を書いた。

 

苦しんだ男

幸せなイエスキリストの

ように

十字架が許されるなら

 

頸を垂れ

花のように咲き出す血を

たそがれ行く空のもと

静かに流しましょう。

「十字架」(4―5節)

 

彼は、抵抗とか民族の解放とかの言葉を使ったことは一切ない。彼は、相手が自分を迫害するなら、その要求に全的に順応する、イエスのように自分の命を相手にささげる、と書いた。この徹底した非暴力無抵抗主義の告白は、後日、福岡刑務所においての彼の死として現実化された。

太平洋戦争末期である1944年と1945年に死亡した李陸史、韓龍雲、尹東柱、この三人の詩人を、韓国近代文学史は「暗黒期の星」という名で呼んでいる。人間に対する人間の大量殺戮を、聖戦という名で美化する狂信の宗教がアジアを支配していた時期に、人間の真の自由と希望と平和の原理を唱えていて犠牲になった存在、暗闇の中でも永遠にきらめく光のような存在である、という意味だ。

韓国人は、このような詩人の存在を韓国近代史や知性史の柱であると思っている。自分と家族の生命、民族の保全を理由に戦争に協力した、ほかの有名な文学者たちが「親日文学者」と呼ばれ、韓国で敬遠されている理由が、ここにある。

2、「序詩」の世界

上記の三人の詩人は、早くから日本に紹介されたことがある。その中で日本人にその名が一番ひろく知られている人が尹東柱である。

彼が絶命した2月16日前後の日曜日には、東京と京都と福岡で大きな規模の追悼式が行われる。彼の詩を読む読書会が数多く存在しており、彼の詩集と遺品を展示する企画も相次いでいる。彼の故郷である中国の吉林省と、青年期を送ったソウルの町、詩碑と寄宿舎が残っているソウルの延世大学を日本人読者たちがたずねている。彼の詩と生涯を素材としたドラマ、演劇と映画、演奏会、絵画活動も相次いでいる。京都の同志社大学と京都造形芸術大学、彼が最後の写真を撮った宇治川の川辺にも詩碑が建っている。彼がしばらく通っていた立教大学では、学生たちによる詩碑建立運動が進んでいる。高校の国語教科書にも彼を紹介した文章が載っており、高校生たちが彼の詩を読んでいる。

尹東柱は、朝鮮王朝末期に中国に移住し、朝鮮人集団村を開拓した家門の子孫である。彼の家族が定着したところは、北朝鮮の北端に近い中国吉林省和龍県明東村というところであった。村全体が民族主義的な性向が強く、キリスト教信仰を持っている家庭が多かった。後日、この地域は、独立運動の根拠地のひとつであるという理由で、日本軍による大々的な討伐の対象になる。

尹東柱は、その明東村と平壌で小・中学時代を送りながら詩人への夢を育てた。平壌での中学校時代には、日本の神社参拝の強要を拒否する集団ストライキで学業を中断し、帰郷したこともある。 大学は、ミッションスクールである延禧専門学校(現在の延世大学)で学んだ。1941年末、卒業を控えていた時期に、彼は詩人としてデビューするため、自選詩集の出版を図った。その原稿集のタイトルが「空と風と星と詩」であった。彼は詩の選別作業が終わった後、「序詩」という作品を新しく書き、詩集の冒頭に付け加えた。

 

死ぬ日まで 空を仰ぎ

一点の恥無きことを

葉あいにそよぐ風にも

私は心苦しんだ

星を歌う心で

あらゆる死にゆくものを愛さねば

そして わたしに与えられた道を

歩み行かねば

 

今宵も星が風に吹き晒らされる

(「序詩」 1941、11)

 

この作品が、現代韓国人の愛誦詩リストでいつも1位を占めている作品である。尹東柱は、神の前に恥ずかしくない姿で立つことができるように、そして神が決めておいた運命に従えるように、と祈った。そして、朝鮮人と日本人も含まれている「あらゆる死にゆくもの」、即ち、罪悪と貪欲のなかで悲惨に死にゆくしかない全ての生命体を愛すること、「互いに愛せよ」というイエスの命令に 従うことが自分の人生課題であると告白した。 尹東柱は自分の青春期をこう結論づけた。

人間同士の暴力は、人類世界では永遠に繰り返されるしかない、と見なしているのが、キリスト教の世界観である。なぜなら、人間は、原罪、即ち無知と貪欲を基盤として生存する、レベルが高くない生命体であるからである。従って、人間が高いレベルの存在に進化しない限りは、人類史の中で繰り返される悲劇を止めることはできない。その進化を可能にする方法の一つが、イエスの命令、即ち「互いに愛せよ」という命令に服従することである。それゆえ、キリスト教信者にとって人生とは、「愛せよ」という至上課題を練習し、訓練する短い過程に過ぎない。

尹東柱を愛する全ての韓国人が、このようなキリスト教の世界観に慣れているのではない。しかし、尹東柱は、読者の殆どが青春期に抱いたことのある、純潔な人生への憧れ、それを代弁してくれる。また、歳をとって、その夢が色あせる前にこの世をさったので、尹東柱が抱いていた理想は毀損されていないままのかたちで、読者たちの脳裏に保存されている。この作品が思想や国籍や宗教を超越して読者たちを惹き付ける理由、 尹東柱という青年が読者に愛されている理由がそこにある。

青春期のロマンと倫理的な苦悩、信仰的な決意などが盛り込まれているこのハングル詩集『空と風と星と詩』は、険しい時局を恐れた恩師に引き止められ、出版を諦めざるを得なくなる。太平洋戦争が始まった1942年頃からは、ハングルで記された書物を持っているだけで処罰の対象になりえたので、その原稿集は尹東柱の親友である鄭炳昱(1922―1982)に預けられた。 鄭はその原稿集を、韓国の最南端にある自分の実家の床の下に隠しておいた。これが生き残り、尹東柱の詩と生涯が歴史に姿を現すことになる。

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