性差別と闘うメディアの女性たち

~セクハラの何が問題かを明らかにする

林 美子

はやし よしこ | ジャーナリスト、「メディアで働く女性ネットワーク」代表世話人



はじめに

 

今年4月、福田淳一財務省事務次官(当時)による女性記者に対するセクシュアル・ハラスメントが明らかになった。この事件は、麻生太郎財務相らによる二次加害発言を含め、日本社会での性差別の根深さと、メディアの世界も差別とは無縁ではないことを、白日のもとにさらすことになった。

一方で、この事件を契機に、性差別をなくしていくための取り組みも活発化している。私自身も、ジャーナリズムに携わる仲間の女性たちとともに「メディアで働く女性ネットワーク」を設立し、相互扶助と地位向上に向けた活動を始めることとなった。その経緯を紹介しつつ、日本における性差別構造について分析し、性差別をなくし、個人の人権が尊重される社会をめざして変革していくためには何が必要かを考察する。

 

1 財務次官セクハラ事件の経緯

 

まず、事件の経緯を振り返る。今年4月12日発売の『週刊新潮』などによると、財務省の事務方トップであった福田氏は、財務省の記者クラブに所属するテレビ朝日の30代の女性記者を飲食店に呼び出し、「胸触っていい?」「抱きしめていい?」などの暴言を繰り返した。

財務省による聞き取り調査に対して福田氏は、「女性が接客しているお店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」としつつ、記者へのセクハラは否定した。18日に福田氏は辞任を表明し、24日の閣議で承認された。財務省は27日、セクハラ行為があったとして福田氏を減給処分とした。

この間、麻生氏はじめ政府関係者は、これは取るに足らぬ問題であり、被害者の方に落ち度があるかのような発言を続けた。

事件が明らかになった当日の参院財政金融委員会で、麻生氏は野党に事実関係の確認や福田氏の処分を求められたが応じなかった。同じ日の派閥の会合では「男の番(記者)に替えればいい」と発言(*1) 。13日の記者会見では「(セクハラ行為という)その一点をもって能力に欠けるという判断をしているわけではない」と、福田氏をかばった。

24日の会見では「はめられて訴えられてんじゃないか」、5月4日には訪問先のフィリピンで「セクハラ罪という罪はない」と発言し、その後も同じ発言を繰り返した。被害者への謝罪も拒否していたが、14日の衆院予算委員会でようやく「おわびを申し上げます、はい」と述べた。この発言を動画で見たが、謝罪とはいえない投げやりな態度だった。他にも麻生氏は、ここに書ききれないくらい問題発言を続けた。

財務省も組織として鈍感だった。財務省は4月16日、被害を受けた記者に対し名乗り出て調査に協力するよう求め、調査手法に批判が起きると矢野康治官房長は「弁護士に名乗り出て、名前を伏せておっしゃることはそんなに苦痛なことなのか」と述べた。与党の自民党議員からも「(事件に抗議する女性議員は)私にとって、セクハラとは縁遠い方々です」(20日、長尾敬衆院議員)などと問題発言が続いた。

 

2 これらの発言の何が問題か

 

一連の発言は問題だらけだが、擁護するコメントはネット上を含めて少なくない。よって、これらの発言の問題点を改めて確認しておくことは意味があると考える。

まず、福田氏は問題となった言動を「言葉遊び」「全体として見れば違う」などとし、最後までセクハラであると認めなかった。「大した問題ではない」との認識は麻生氏にも共通している。

セクハラが性暴力の一形態であることは、この問題を考える上での基本である。言葉による暴力も被害者に重大な影響を及ぼすことは、言葉のパワハラによる自殺が労災に認定されていることからも明らかである。「大した問題ではない」のではなく、被害者にとっては「大変な問題」なのである。

麻生氏らの「はめられた」発言は、性被害や痴漢事件においてしばしば聞かれる。それらの発言が被害者に与える深刻なダメージに目を向けず、被害者に責任をなすりつけることで加害者を放免するための卑劣な中傷である。このような言葉を、副総理でもある人物が公言してはばからない日本の現状に慄然とする。

「能力があること」を理由に加害者を擁護する発言もよく耳にする。だが、被害者はセクハラにより仕事の能率やモチベーションが下がり、時には心身に不調をきたし、休職や退職に追い込まれてしまう。そのような行為をする人物に「能力がある」とは言えない。たとえば部下が上司からセクハラを受けて休職した場合、上司が部下の分まで2倍働けるわけではない。パワハラも同じことである。そもそも、自分の行為が相手に及ぼす負の影響を考えない人物は、コミュニケーション能力が決定的に欠けている。

「セクハラ罪という罪はない」という発言は、「セクハラ罪」という刑法上の罪名がないことをもって加害者を放免しようとする。刑法には「強制性交等罪」や「強制わいせつ罪」などがあるし、軽犯罪法などにも性加害に関する規定がある。むしろ問題は、それらがセクハラ行為に十分に適用されていないことにある。それに、「セクハラ罪はない」というなら、被害者の立場からは「だったら作ってください」となるだろう。フランスや台湾には現に、「セクハラ罪」が存在する。

「名乗り出るのが苦痛なのか」といった発言も、セクハラが性暴力の一形態であることへの無理解が背景にある。性暴力の被害者は、被害自体への恥の感覚に加え、力を持つ相手方からの反撃や、性暴力に無理解な周囲から支援を得られず、孤立と傷つきがより深まることへの恐れなどから沈黙せざるをえないことが少なくない。

2017年に米国で始まった「#Me Too」運動では、数年前、数十年前の被害体験がようやく語られ始めている。旧日本軍の「従軍慰安婦」問題でも、被害者が初めて名乗り出たのは戦後40年以上たってからだった性暴力の被害体験を語ることがいかに困難であるかを示している。

性暴力は性をめぐる権力関係を背景として起きる。セクハラにはさらに、仕事や職場における権力関係が加わっている。二つの権力関係が重なり合ってセクハラが生まれることへの理解が重要である。宮地尚子は著書で「たいていの場合、『加害者』は正当化の論理を持っている」と指摘する(*2) 。自己正当化の論理を持っているから、他者を傷つける行為が可能となる。福田氏や麻生氏らの言動は、性(セクシュアリティ)をめぐる尊厳を「取るに足りない、トリビアなこと」と位置付け、「つまらぬことにこだわる方が悪い」「はめられた」という「加害者―被害者」を逆転させる論理を持つことで、可能となるのである。

(以下は本文をお読みください)

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